2019年7月25日木曜日

「風評被害」の困った使われ方

「風評被害」という言葉が、「不都合な真実」から国民の目を逸らすことに、政府、官僚によって、うまく利用されている。風評被害とは、根拠のない噂のために受ける被害のこと。そこには、実害でないという、否、少なくとも実害かどうかは問題にしないという暗黙の通念がある。風評被害は金で解決できるものがあるが、実害は金では解決できない。原発に反対する人を、風評被害を煽ると批判する人々がいる。その被害は、農産物が売れない、魚が売れない、帰還できない、復興ができないというもの。再稼働が邪魔されるのも被害だと言わんばかり。これらの被害は実害にもとづくもので、それを風評被害と片付けるなら、それは、政府官僚がその言葉を自分たちのやりたいようにうまく利用している
からだ。我への忖度の放置と同様、自ら働きかけたかどうかは別に。何故なら、風評被害を受けるものが言い出すものも有る。大事なことはその場合、彼らは実害の有無については無頓著なことだ。
しかし、危険が真実であれば、それを我慢して認め受け容れなければならないのだ。
被曝の危険な事実があれば、それはもはや風評でなない。
被害もあるべくしてあり、いくら怯えが怖くても、当然、我慢して受け入れなければならないものだ。
そういう農産物、魚を売ってはいけないのだ。帰還してはいけないのだ。復興してはいけないのだ。事故を前提にしたらいけないのだ。避難訓練した段階でいけないのだ。再稼働してはいけないのだ。
政府と官僚は、難しいことは安直に風評で片付け、真実かどうか追求せず、被害を受ける人の側に恩着せがましく立っている振りをする。
こうして放射能被曝の真実が直視されない。
同じように、原発安全神話が倒れて、今度は被曝安全神話が跋扈している。
風評被害への配慮や懸念が実害を究明するのを妨害するように取り沙汰される時が有る。
原発サイトから冷却水が常時海洋放出されていることが、福島汚染処理水を流しても良いとする論拠になり、決して原発サイトからの流出が危険というそもそも論に至らない。