2016年6月21日火曜日

参院選の争点隠しは憲法違反


選挙において、或るイシューについて政権が争点から外し民意を問う場にしないことは、主張や内容を国民に訴えないということである。そのイシューについて政権が重大な意思を持ち或いは進めており国民の間で賛否が分かれるなら、何人も法律の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有する」という憲法第16条に抵触する。
条文の「請願」の意味は国会議員や政府へ行う陳情だけでなく、国民が自分の意向を汲む議員を選ぶことを含んでいる。そのためには候補者の主張を国民が「平穏に」判断できるよう候補者の方から国民によく説明がなされる前提がある。自公政権は、憲法の改正案は今後細部の変更があるから国民が判断するのは先の国民投票でよいと言う。これは詭弁であることをはっきり言わなくてはいけない。国民投票に掛けるような重要なことはいきなりでなく、その前から国民は理解と熟考の積み重ねの機会を何度でも与えられることが「平穏」の意味することである。ましてや、改正案と閣議決定された集団的自衛権が示す通り政権の方向性は明らかであり、しかも改憲発議できる議席数に達せば堰を切って進む不安を多くの国民が感じている。電気は十分足りている上、福島事故の収束に悪戦苦闘しているのに政権は、国民の反対する意見を押し切って原発の再稼動と輸出を行っている。こうした政権の矛盾を選挙において土俵に上げないで、国民は憲法16条の国政への関与の権利、即ち平穏に請願する権利をいつ何時、行使するというのか。ましてや、18歳から20歳になる人が国政選挙で初めて投票する。
政権政党から争点とされなくても、戦争法案と原発については、国民が政権政党に投票している限り国民の意に反して進んで行くことを見落としてはならない。

2016年3月21日月曜日

電力自由化について

(アクションの結論)

 電力小売全面自由化において是非達成したい一つの自由がある。地産した再エネ電気を地消する自由である。現在、一般電力が多くを占めている再エネ電気の買取りを新電力に切替え、そこを通じ一般需要家が再エネ電気を選択購入し産出した場所で消費する。地消とは送配電コストを殆ど掛けることなく消費することである。
 再エネを買取り販売する国策的な新電力を一社作る。当該新電力の需給の同時同量は今まで通り一般電力が全体需給の同時同量管理の中で取り、当該新電力に限って特別に同時同量を取ることを免除する。謂わば、「同時同量」の時間を一年まで延ばしインバランスは事後精算する。つまり、契約顧客は年間消費量と同量の当該新電力の供給量を年間契約し、月々は、全て当該新電力が供給した再エネ電気を消費したとする。
 当該新電力の仕入れ価格は、契約顧客が一般電力と結んでいた契約電気料金とし、それに1円追加し販売する。需給が逼迫するようであれば販売仕入れ値差1円を一定にして調整する。


(自由化は固定価格買取制度の窮状を救うものでなければならない)

 電気の家庭向け小売の全面自由化が始まり五ヶ月が経過した。
 今回の自由化は何のために行われるのだろうか。独占の解消なのだろうか。規制撤廃なのだろうか。「自由」について上げてみれば、需要家が多数の中から購入先を選べる自由、特定の電源種電気を選べる自由、誰でも登録を受けて小売する自由、価格競争の自由があろう。認定を受けて誰でも発電する自由は既に有った。
 我々は電力自由化と同時に再生可能エネルギー普及に関する施策を持っている。土俵とプレイヤーを同じくしながら、後者は賦課金の国民負担増大に苦しめられ、また普及が妨げられるような状況さえある。電力自由化が国民の幸福を増進するものになるためには、再エネ普及の固定価格買取制度のこの窮状を救うものでなければならない。そのために是非達成したい一つの自由がある。地産した再エネ電気を地消する自由である。

(新電力から購入する時、初めて再エネを選ぶことができる)

 ある物を購入するためには、その価値を認めそのもの自体を選り分けて指し示せなければならない。しかし電気を電源種別に注文するのは簡単ではない。作り方が違うだけで出来た電気は同じで、しかも送配電線に乗れば他の人が注文した電気と混ざって区別が付かない。電源種別の注文は電力会社が送電線へ送り込む時の電源構成による他ないということである。或る電源種電気を購入したければそれを多く含む電力会社と契約し、忌避するなら含まれた電力会社は断ることになる。
 現在、再エネの殆どは一般電力に発電者から買取る義務として自動的に集められ、他の電源種電気と一緒に販売される電気のうち再エネ電気はせいぜい3%の僅かに過ぎず、消費者は再エネを選ぼうにも選びようがない再エネを注文したつもりが原発電気を注文することにもなりかねない。新電力であれば再エネを発電し或いは集めて高い再エネ構成の電気を供給する事ができる。従って消費者は新電力から購入して初めて再エネを選ぶことができる。

(電気選択のニーズと再エネ電気を選ぶ意味)

 自由化に移行して5ヶ月がたって、人々の電気の選択のニーズは再エネ電気を選ぶ自由と原発電気を忌避する自由。このことに大抵尽きることが明らかになってきた。これ以外のニーズはあっても極少数だ。
 再エネ電気を選ぶとはどういうことだろうか。再エネ電気を注文しようとする気持ちを掘り下げて観ると、再エネ発電設備の普及を応援したいのだ。発電設備と電線で直接結んで再エネの電気そのものを受け取ることまで要求しない。手にする電気は、既存の一般電力の送配電線に乗る限り、どの電源種のものも混ざって均一で同じ性質と分かった上で、電気を作らせる注文をしていると言えるのではないか。
 「作らせる注文」は二つの意味を導く。第一は、電気を選ぶということは、その電気の供給者が生産し送電線に送り込む電気に対し対価を払うことで、対価は投資の資本を回収する原資だから、とりもなおさず発電設備に投資することである。再エネの場合、ほぼ理論的原価の固定買取価格相当額を、対価を払う購入者と賦課金を払う国民が共同で投資する。第二は、小売する時、消費の量と同量を同時に送配電線に送り込み供給する同時同量が求められるが弱小の新電力には困難を伴う。「作らせる注文」は供給のみのことだから新電力に需要家の消費量と同量作りさえしたら「同時」をある程度、猶予する英断に繋がる。


(再エネの価値は少なくとも電気料金)

 再エネは基本的に電気を使う場所で発電出来るオンサイト発電、即ち地産地消の電源である。実際、再エネ発電された電気は自家消費の余剰分つまり自己の家庭で使われた残りも配電線を通り近い所から順次流れ、近隣の家庭の電気機器の負荷で消費されるので近所一帯で見れば、全て自家消費をしているわけである。 送電線を逆潮流することがあっても発電の所から変電所側の近隣家庭の負荷を繋ぐ短距離に過ぎない。少なくとも、全体の3%を占める、メガソーラーでない低圧の太陽光発電は。全量売電はこれに発電所での自家消費が無いだけだ。産出した場所で消費出来、購入電気を断ることが出来るから再エネの電気の価値は少なくとも電気料金である。だからこそ、再エネの投資判断の基準もグリッドパリティー、即ち電気料金である。
 固定価格買取制度において、一般電力が再エネ発電者から買取る固定買取価格は、経産省の「電源種別電気コスト比較」のコストが元になっている。「電源種別電気コスト比較」では、発電した所でのコストが一律に比較される。消費或いは供給する場所への移動のコストは考えられていない。
 一般電力が再エネ発電者に払う固定買取価格と再エネ仕入れコストの差が交付金として国から一般電力に補填される。その一般電力の再エネ電気の仕入れコストは、電気料金の価値あるものが発電者から一般電力に届いた時には、その半分以下の回避可能価格まで低下している。交付金の原資は取りもなおさず一般需要家が負担する賦課金である。この送り届ける時の低下する額、電気料金と回避可能価格の差額が賦課金の増加を来している。
 しかし、投資を促す費用を賄う賦課金が固定買取価格を補填する幅は、回避可能価格との差でなく価値即ち少なくとも電気料金との差で十分な筈である。
固定買取価格35円、家庭用電気料金25円、回避可能価格10円とすると、今(35−10)=25円払っている賦課金が(35−25)=10円で済む。
(25円−10円)÷ 25円 = 0.6、現負担の6割も圧縮できる。
賦課金累計予想総額53兆円の6割、32兆円が減少する。
 一般電力が買取ると何故、再エネの仕入れ値は回避可能価格まで下がるのだろうか。一般電力の需要を満たす供給に再エネ電気が割り込み他の電源種電気に置き換わる時、全体の費用が変わらないためには入れ替わった電気の費用も同じになるべき、つまり再エネの仕入コストは置き換えられ不要となったコスト即ち回避された費用に相当すると言う。
 しかし、この仕入コスト置き換わりの論理は、買取られた再エネの供給に対応する需要が一般電力の所与に固有の需要の時に、初めて言えることである。果たして、再エネ電気の需要は一般電力の需要なのだろうか

(再エネは一般電力の需要か?)

 新電力から購入して初めて再エネを選ぶことができると前項で述べた。まず、再エネを選ぶ自由があれば、その需要が一般電力から新電力へ確実に移行し、一般電力の需要になり得ない。再エネ電気を原発電気と混ざった電気でしか販売ができない一般電力に再エネ電気を買い取る資格は無い。
 次に、そもそも経緯を振り返ると、一般電力が自分の所与の需要と考えるには無理がある。国民は福島事故で全国の原発が止まり一般電力から供給して貰えないだろうから省エネもし、地産地消の再エネ電気を作った。再稼働なくば電気が足りない、供給できないと一般電力が言い張ったその分を、再エネで補おうと国民が賦課金を拠出した。従って、再エネ分の需要は一般電力が原発事故という自己の失敗で一旦はその供給とともに放棄したものの筈である。
 国民が頼んで一般電力に買い取って貰っているわけでもない。一般電力は制度上、再エネ買取義務者とされた電気事業者の大手として殆どの再エネを買い集めただけのことだ。電力会社は、それさえも2年前、再エネの買取を迷惑と言わんばかりに系統接続の申請への回答を保留した。自分の供給不足を再エネで補完してもらった上に事故が無かった時と変わらない他電源並みの仕入れ値、回避可能価格で何の損失も負おうとしない。再エネの本来の価値を生かそうともせず、国民の賦課金負担増の犠牲によって。原発停止の電気を補おう、原発のリスクを低減できる、原発を代替しようと国民が導入した再エネを独り占めする我儘が、電気が足りても原発を止めず再エネ電気を原発電気と分けて販売できない一般電力に許されるのだろうか。
 そして、なによりも、一般需要家が電気料金及び賦課金、即ち正に設備費を負担している再エネ電気の生殺余奪の権は一般需要家に有る。再エネの環境価値が一般需要家に帰属するのと同じ意味である。自分で苦労して作った再エネを選びたいのは自然の感情である。忌避する電気と混ざらないで再エネ電気を選んで販売できる電力会社に、再エネの真の価値を賦課金がミニマムになるように正当に生かす電力会社に、再エネ電気を買取らせそこから購入するのは一般需要家の権利であり随意である。
 再エネの需要は、一般電力の従前の所与の需要を供給する他電源の置き代わりなどでなく新たな追加的な需要として供給されるべきものだ。再エネの選好を拒否され、再エネを軽んじられたりまでして一般電力に買い取って貰う必要は何も無い。


(回避可能価格でよしと主張する人々の論拠)

 回避可能価格でよしとする人々は、総括原価方式では仕入価格がどうであっても結局、電気料金に跳ね返り国民負担は変わらないから、回避可能価格で良いと抗弁してきた。例によって総括原価方式を盾に、国民だけでなく一般電力、自分自身に対して思考停止を迫る。
 この論拠は総括原価方式の廃止を予定し需要の自由な移動を許す自由化になった今既に無意味であるが、とんでもない重大な問題を孕んでいることに気付かせる。再エネ電気の需要が正しく一般電力固有の所与の需要でなく追加的需要とした時、電気料金と回避可能費用の差、即ち交付金の貰い過ぎが一般電力の利得になり抗弁の通り、その利得は総括原価の送配電費用等に充当され同額だけ電気料金を下げる。送配電費用には総括原価方式のもと、発電料以外のコストが含まれる。純粋な送配電施設の固定費、維持費だけでなく、出力調整のための設備予備分、周波数及び需給調整のための発電経費等が含まれている。一般電力は原発が止まっている時にも発生する膨大なコスト、原子力非発電費と言うべきものを明らかにしていない。総括原価方式の元では、共に不透明で隠したい資金とコストがあれば正にその資金がそのコストに充当されると言うことができる。正にこの賦課金の貰いすぎの利得が、送配電費用に紛れ込んでいる原発が停止中の膨大な費用に流用されているのである。疑う人も、再エネの回避可能価格、端的に言えば火力発電コストと販売価格即ち電気料金の間には、間違いなく原発が停止中の費用が含まれていることは否定のしようがないであろう。
 国民が3.11直後の4月の電気料金の請求書から賦課金を平穏に受け入れたのは原発停止で不足する電気を補うためだけではなかった。再エネが原発リスクを低減しうる、代わりうると期待したからである。その後、再稼働しなければ電気が足りなくなると言われた時も、同じ思いだった。その再エネ電気が、あらずもがな一般電力までコストをかけ届けられ火力の原価を回避するぐらいにしか用いられない上、あろうことか賦課金が再稼動に備えた原発の停止中のコストを補填するために利用されているとは。
 回避可能価格が卸市場価格に連動することになった。送配電業者が買い取った再エネ電気を卸市場に出した時の差益を避け、また電気のやり取りし易いように配慮したと思われる。卸市場価格は回避可能費用より3円ほど改善するが再エネの価値とは程遠い限界的価格にすぎない。尚、規模も流動性も小さく低い卸市場の価格変動は激しく、弱小の新電力の調達リスクを増す。
 10月に行われた調達価格等算定委員会で、将来の住宅用太陽光発電の固定買取価格について2019年電気料金並み24円/kwh、2020年以降できるだけ早期に電力市場価格並み11円/kwhを目標とするとされた。こうした場合、電気料金に達した2019年以降、市場価格並みに達するまでの間をかけて賦課金差異が縮小消滅する。本提言に沿った場合は、賦課金差異が発電者の売電価格差異へ漸次、移行していく。
 差し詰め、回避可能価格は、一般電力が買取先の時の自己都合の遺物でしかない。賦課金計算において回避可能価格を用いるのは、自由化の元、新電力という仕入れにおいても競争相手が多く出来た現在は間違いである。況や、新電力にも回避可能価格を適用するのは、賦課金を、需要家を犠牲にしてまでも一般電力の買取権益を守る意図が有るのである。総括原価方式の元では賦課金か電気料金かの違いでしかなく、どちらでも大差ないと言うならば電気料金にし、新電力と正々堂々と競争しなければならない。賦課金にし、一般電力が原発を継続する支援金にしてはいけないのである。


(「再生可能エネルギー」と銘打ち、ことさらクリーンさを強調宣伝し小売すること)

 再エネの電気の環境価値は、その買取価格を構成する賦課金を負担する一般需要家のものだから、新電力が、「再生可能エネルギー」と銘打ち、ことさらクリーンさを強調宣伝し小売することは虚偽または価値の二重使用に当たるので罷りならんと政府は言う。普通の商品のように価値を宣伝し相応の価格で売れないというのは何故だろうか。
 環境価値ゼロの電気の価格は一般的電気料金と見なせよう。再エネの売価が一般的電気料金を超えるプレミアム即ち環境価値が賦課金と二重になり、賦課金の戻りであるべきところ小売会社が横取りするのは不当だと言うのだろう。電源種が違っても出来た電気は均一同質だから再エネの環境価値のプレミアムはつかない、と考えるのは早計だ。再エネの選択は「作らせる注文」と述べたように、クリーンな方法で作って貰いたいから注文し、それにプレミアムを払う。原発電気皆無の再エネ電気ならば、少々高くても購入したいという人々が新電力契約変更予備軍として大勢居る。
 しかし、小売りのための仕入れも販売価格のプレミアム相応の上昇があれば、交付金計算において相応の賦課金が減り、購入者の払ったプレミアムが小売業者を素通りし賦課金負担者に戻る。現在、新電力は再エネ仕入れに関し一般電力と同じ条件の回避可能価格とされている。固定買取価格で買取り、一般電力の回避可能費用との差の交付金を貰え、低圧託送料金の約9円を送配電業者に払う。このように仕入れコストがプレミアムとなんの関係も無い所で固定的に決まるからプレミアムが賦課金と二重になる。
 仕入れ値を回避可能価格や卸市場価格のように他電源や全電源平均で決まるものから再エネ独自の需給で決まるように改め、それを基礎に交付金を計算しプレミアムの大半の賦課金が減り国民に還元するようにすればよい。
 普通の商品と同じように新電力が再エネの良さを思う存分に宣伝し、高く売ってよいのである。高く買う需要家が待ち受けているのである。そうしないで、賦課金を減らさないでどうするのか。一般電力が再エネの特質と無関係な価格で仕入れ、選べないから高く売ることもできないことこそ問題になる。再エネを新電力が分けて販売、需要家が選んで購入することが、賦課金増大に苦しむ固定価格買取制度の窮状を救う道筋なのである。
 尚、一部の新電力が固定買取価格に1円程プラスして太陽光電気を買取しているが、仕入れ価格は回避可能費用のまま、託送料を課されない自社事業所消費に充当するので一般電力と同じ旨味の一部を単に発電者にお裾分けするものである。賦課金を一般電力から横取りしているだけである。


(再エネの送配電費用は必要か?)

 一般電力が再エネ電気を回避可能価格で仕入れることと、再エネ電気に低圧の送配電費用が掛けられ販売されることとは表裏一体である。再エネ電気の物理的な意味で使用先は近隣の殆ど低圧の家庭用などである。低圧の電気料金で販売されるものを、回避可能価格という他電源並み価格、即ち最低の発電費で仕入れることは、その間に少なくとも低圧に課される送配電費用相当があるからだ。
 一 極集中発電は電気を遠くまで送り届けるため高圧な電気を作る必要がある。需要家は電気の使い方や規模により異なる電圧を必要とするので、発電された直後の超高圧電気を幾つかの変電所を経て降圧し需要家に配電される。低圧の末端の一般家庭は全ての変電所を経て、送電ロスもかかり託送料単価が9円と高くなるわけだ。特別高圧電気を使う大規模工場は一次変電所だけを経て託送料がせいぜい2円と低い。大口需要家が安い理由には別の説もある。大工場等に自家発電設備を持たれたら一般電力から供給不要となり稼働率が下がる。一般電力は託送料を安くしてでも自分の稼働率を維持したい。
地産地消の再エネ電気は発電された時、既に一般家庭ですぐ使用できる低圧電気なので変圧は不要で、それが近隣の負荷で使用されるので配電線を流れる距離もロスも僅かだ。また自家や近隣で使われる再エネ電気の発電設備はりっぱな自家発電設備であり、一般電力から供給も託送も受けていない。財務的のみの意味における託送に過ぎず、少なくとも現に物理的に託送されている大口需要家より安く出来ない理由は何もない。
このように再エネ電気の低圧の意味は、降圧のための段階コストを積み上げる低圧託送料算定根拠に無縁なものである。新電力の発電販売する再エネ電気は表に出るので、この再エネ電気の特徴が論議されるが、一般電力が買取、販売しているものは、固定価格買取制度の一般電力買取義務から来る盲点になっており、論議の俎上に上がらない。
 実際、今行われている電力ガス監視等取引委員会での送配電費用の負担方法の検討において、新電力が再エネを販売する場合の現行の低圧託送料9円の下げの見直しについては論議に上るが、一般電力が買い取っている再エネの託送料については全く忘れられている。物理的電気の流れは全く同じであり乍ら、迂回しているのは財務的整理上だけなのに、扱いが違ってよいはずがない。一般電力が再エネ電気を回避可能価格で仕入れることと、再エネ電気に低圧送配電費用を課し販売することが同じことに事務局と委員が気付いているかどうかは分からない。

(賠償、廃炉等の費用を新電力にも課す計画)

福島第一原発の廃炉や賠償と一般原発の早まった廃炉等の費用を新電力にも託送料に乗せて負担を求めようと政府は検討中である。一般電力から新電力へ移行した契約は現在3%だが、将来増えていった時、原発を継続する一般電力がこれらのコストを回収する配賦ベース量が減少し立ちいかなくなる焦燥の表れである。しかも、新電力が競争するに必要な電力量を市場で確保するため原発電気を卸市場へ払い出すことと交換条件にしている。新電力に切り替えた一般需要家も過去に原発電気の恩恵に与っていたので、事後発生費用の賠償と廃炉のコストを平等に負担させようという主旨である。
新電力への負担の鞭と原発電気の卸市場供給の飴で、事故コスト増大の難を原発継続に繋げる、彼らには起死回生の機略であり、新電力と一般需要家にとっては原発継続に加担さされる罠である。新電力が原発電気を貰えば、今後同じような事故が起こればまた原発の恩恵に預かっていたとされ事故コストの負担は繰り返す。そして電力自由化が原発継続を容認し助ける道具に成り下がる。原発電気を忌避して新電力に契約を切り替えた需要家が多い。再エネを新電力から購入できるのを待っている需要家が大勢いる。新電力の供給力を心配してくれるなら、原発電気などより、再エネ電気の買取を一般電力が新電力に譲るべきである。
 新電力への事故コストの賦課と同じことが、再エネを通じて既に行われている。一般電力が多大に占めている再エネは、消費者の再エネ選択の道を開きさえすれば堰をきり一般電力から新電力へ、その需要が流出するものである。この一般電力の固持した再エネ電気も他電源と一絡げに上記のコストを回収する配賦ベースになっている。
 原発を忌避し新電力に切り換えた人の需要と、再エネを新電力を介して選びたくても一般電力に質に取られ切り替えられない人の需要、共に原発に反対する人々の需要を金づるにその願いを逆手に取る。共に全需要のほぼ4%程だが、後者は、断らなくとも同じ事が自動的にできるのでより酷い。そして、再エネに関しては、上で見てきたように託送料が根っこから掛かり、より重大な問題を孕んでいる。電気を選ぶことは、その電源に投資することである。再エネを選びたいと願う人々が逆に忌避する原発に投資してしまう。
 原発事故コストを国民に付け替える話しがいつも怪訝さと可笑しさを伴うのは、福島限りの負担かどうかを全く置き去りにしているからである。原発廃止のための福島の今回限りのコストであれば原発に7割が反対する国民は受け容れる。株主と債権者の負担については今更何おか況やである。


(地産地消が最エネの価値を生かし、原発継続を助ける罠から脱す)

 再エネの一般電力への集中を止めて新電力がその価値通りの電気料金で仕入れれば、実際の電気の流れ通りに地産地消され、再エネが選ばれ購入されその真の価値を生かすことができる。
 賦課金は直され減少しても、その分一般電力のコスト回収が出来ず一般電力の電気料金が上がるのでしょうがないという人もいよう。しかし、大違いである。それはこういうことである。その回収できなくなるコストは再稼動に備えた原発の停止中のコストである。反原発の願いの賜物の再エネが、このコストを隠し無いものにし原発継続に利用されている。賦課金の増大の代償に原発コストが隠されている。原発コストが再エネコストに摺り替えられている。、全国の原発の止まっている理由は福島事故である。原発を今後も続け一基でも事故があるたびに日本全国の原発が総点検と継続自体の再考のために停止する。この止まっている時のコストは明らかに事故コストである。政府は原発のコストとして事故コストを含めているというが、これは見落とされている。事故コストを正しく捕捉することが如何に大事か。一基の事故のたびに、どれだけのコストが繰り返し発生するのか認識される事が大事だといっている。それが原発の諦めに繋がり、この停止中のコストも含め、繰り返す事の無い福島限りの事故コストなら国民が喜んで負担する費用にも成り得るからである。

[参考]

発電割合
          2015年    2030年(長期エネルギー見通し)
総電力需要     100          100
再エネ(水力含む)  14         22〜24
(内、太陽光発電)  (4)         (7)
原子力         1         20〜22

一般電力       93           ?
新電力         7(注1)       ?

 (注1)今回の小売完全自由化前からの特定電気事業者及び特定規模電気事業者を含む

地産地消が住宅用太陽光発電の買取期間後の経済性を保証する。そして住宅用等太陽光発電に普及に重点を置く
 住宅用太陽光発電の余剰電気の固定価格買取期間は僅かに10年である。11年以降の取り扱いと経済性が予見できないことが、買取期間20年の産業用ほど伸びない最大の原因である。また、一住宅当たりの設置容量が殆ど4kw以下と小さく抑えられるのは同じ理由からである。しかし地産地消(再エネ発電電気を送電コスト無く、電気料金で売電すること)できれば、発電する限り電気料金での売電が保証され、普及の大きな力になり、設置容量も増える。せっかくの地産地消の電気料金の価値有る電気をその後長く作り続けられるものを10年過ぎれば、お払い箱のように卸市場に委ねたり、住宅の屋根等、太陽光を受ける只のスペースを遊ばせるのは政策ミスである。 
 再エネの中でも、住宅用の太陽光発電を重点的に推進する必要がある。固定価格買取制度のプレイヤーである費用の負担者と受益者及び投資者の三者において、受益者が負担者であるのは当然だが、住宅用太陽光の場合は、負担者が投資者にもなれる。投資を誘引する制度を最も有効に働かせるには誘引費用を負う者が同時に誘引され投資者になることである。物的に、心的に共に負担が負担でなくなる効果があるからだ。買取価格中の利益と買取期間満了後の発電電気の価値が負担者である一般需要家に戻る。誤って甘すぎる買取価格を設定しても負担者に戻る。設備を付けられない一般需要家も同胞に戻れば、賦課金負担しないメガソーラー業者に流出する虚しさは無い。従って、投資を誘引する相手を賦課金を負担している一般需要家とする。つまり、メガソーラーでなく住宅用太陽光の着実な普及に重点を置くのである。この点からも住宅用太陽光の買取期間経過後の地産地消は特に重要である。
 固定価格買取制度は、投資コストを回収できる買取価格の設定と、設備の量産および学習効果による投資コストの低下が、交互に繰返し影響しあい最小限のコストで着実な普及を図る仕組みである。2011年7月に再エネ特措法の全量買取が開始された直後2年、この仕組みの機能するのを待たず、高い固定買取価格の旨味を察知したメガソーラー業者が既に十分安い外国製パネルを使い、駆込みで大量に設備認可を受けた。急進した大規模な産業用の市場は大型の外国製パネルに占められ、住宅用に適する軽量で小型のパネルを販売する国内電機メーカーは、量産効果の余地無く、今赤字に苦しんでいる。
原発電気が無くても電気が余っている今、最小限の誘引費用でもっと着実な普及でよかった。今後20年間国民が払う不当に高い賦課金を代償にして、普及の無用の急ぎ過ぎだったことが分かる。
 殆どが初期だけの設備費の太陽光発電は低金利下で、コスト単価は耐用年数に大きく影響される。稼働年数を大した検討もなく短い20年としたことが固定買取価格が高すぎた最大の原因である。発電量の経年劣化による低下保証として当初の80%まで25年間保証するパネルが既に販売されている。古く稼働開始した設備の現状を見ても35年以上の稼働も十分期待できる。メガソーラー業者はそれを分かっていても言いはしない。
 この失敗の痛手を最小限に抑えるよう、今後のメガソーラーの普及は新たな買取価格に任せる一方、空押さえ未設置のメガソーラーの失効を、住宅用に差し替えるように徹底する必要がある。


(住宅用等、個人の太陽光発電のポテンシャル)

 住宅用等、個人の太陽光の今後の普及余地は膨大で、長期需給計画の太陽光2030年7%より遥かに高い発電割合を目指せる。政府は原発の復権に躍起で住宅用太陽光の普及の努力工夫については余儀以下であった。メガソーラー業者に比べ情報の非対称性が格段に大きい国民への啓蒙に加え次のような施策が必要である。  
 ・施工業者の倫理と技術力の監督育成
 ・施工業者の月次発電量チェックによる初期不具合発見と経年劣化の追跡の義務化
 ・施工業者が倒産した時の義務継承
 ・パネル移設技術の確立
 ・屋根の尾根からパネル上辺までの雨水遮断カバーの開発(パネル下の屋根の耐久性
  向上)
 ・耐震技術との組合せ 
 ・売電収入担保化により高齢者への低利設備資金融資
 ・国内パネルメーカーの量産効果喚起
 ・蓄電池の研究と低価格化
 ・ パネル設置角度手動変更架台の開発

 今の家庭用エネルギー(自家用車燃料除く)消費の全エネルギーに占める割合14%の内、住宅用太陽光が飽和した場合、どれだけ賄えるだろうか。日本の戸建て3,000万戸(全世帯数5,000万の内、持ち家は3,000万戸から推定)が仮に全てオール電化で家庭用エネルギーを賄う量である4kwの太陽光発電を屋根に設置すると8.4%(14% x ( 3,000 / 5,000 ) )となる。更に残り2,000万戸の集合住宅の陸屋根に設置すれば建坪は平均4階建てで1/4に減るが1.4%(14%x2,000// 5,000)となり合わせて約10%となる。車庫や倉庫の屋根、擁壁等スペースはまだまだある。この20年間の原子力の発電比率10%に十分とり替わることができる。



(再エネは究極の自給)

 太陽光発電は、単に外国依存を減らすに留まらず一極集中発電と送配電を排し近隣を含めた家庭での自給が出来る。原燃料費や運転費の掛らない限界費用が殆どゼロの自給である。特に個人の太陽光発電は、送配電施設の使用が極めて少ない。電気自動車を通じ運送用エネルギーの一部も自給が可能である。 
 一極集中発電がどんなに脆弱で危険なことか。戦争状態になれば発電所周辺の住人を避難させ自衛隊が警戒に当たるだろう。敵国に民間人を標的にしない口実と核弾頭以上の効果を与え、生活の大動脈を一発のミサイルで断つ、お膳立てをするようなものだ。
 電気の買取が新電力に変わっても財務的な整理のことであり、電気の物理的流れは地消し自給されていることに変わりない。しかし自給の財務的整理こそ大事である。一般需要家が再エネの自給の優位性を認めて主体的に選んで、初めて非常時の対応を万全にする真の自給となる。そうでなければ、例えば、一極集中発電が止まった時に再エネ電気が他電源種電気と一絡げに全量抑制されても、やり過ごしかねない。
 合わせて、再エネの環境価値だけでない、自給の付加価値が正当に評価され再エネが選ばれる。


(新電力一社に再エネを一元的に任せ、同時同量は一般電力が肩代わりし免除する)

 新電力と取り交わす新な購入契約の意味は、送配電線網の「入り口」即ち発電投入される所と「出口」即ち購入消費される所において、電気の名付けを変更するようなことである。「入り口」は「一般電力が供給する電気」から多くの「或る新電力が供給する電気」へ変更、「出口」は「一般電力から購入する電気」だったものが多くの「或る新電力から購入する電気」に名前が変わる。名前が変わるだけで、流れている電気は契約前と何も変わらない。送配電線に送り込まれた電気は近い負荷から順に使われることに変わりはないからだ。名付け方即ち契約に基づく電気のやり取りを財務的な電気の流れとすれば、これがいかに変化しても、物理的電気の流れは何も変わらない。
 送配電線に送り込む電気と消費する電気の量を刻々一致させなければ停電等の事故に繋がる。この一致を取ることを同時同量といい、各新電力毎とるように求められる。ただし配電線を分けない限り事故に無関係な財務的な同時同量である。財務的な新電力のインバランスがどうあれ、物理的な全体では一般電力の努力で今まで通り同時同量はきちんと取られている。
 大数の法則の通り、全体の電気の中で均されている間は調整し易いが、財務的に新電力毎に細分化されると困難が増幅され、再エネの受入れ余地は狭まる。現在でも4%の再エネを3%の新電力にばら撒くと各社の比率は6割弱となり、30分毎の同時同量をとるため再エネの抑制が必至となる。抑制によらなければ「インバランス料金」という一種の罰金が増える。尚、この難しさが新電力が、顧客の要望に応え再エネを販売したくとも調達を躊躇する理由になっている
 同時同量を新電力に課すとしても、再エネの変動性の困難を個々の新電力に負わすのを何とか避けたい。そのため、再エネを国策的に設立した一つの新電力に集め刻々の同時同量の制約を思い切って、この一社に限り免除する。物理的に一般電力が取っている全体の同時同量の中に収まり、それでよしとする。「同時同量」の免除の具体的方法は、「同時」の期間を一年まで延ばし「同量」を猶予する。インバランスを一年間で締めて精算する。つまり、契約顧客は年間消費量と同量の当該新電力の供給量を年間契約し、月々は、全て当該新電力が供給した再エネを消費したとする
 送配電線を倉庫に見立て、次のように解釈する。
 物理的な電気の流れでは、契約顧客は近い再エネ発電所から電気を受け、再エネが発電されていない時や不足する時は一般電力等から流れる電気を使う。倉入れされてもすぐには使わなかったり、或いは使いたい時すぐ庫入れしてもらえず他の電力会社が庫入れした物を使ったりしなければならない。そこで、電気の内容品質はどれも同じなので、庫入れ時に契約顧客に所有権を移転させた後は倉庫内の他の電気と等価交換を何時でも行いうるとする。契約顧客に近い再エネ発電所が無い場合は、再エネ発電所に近くて契約していない需要家が使う再エネ電気と交換しうるとする。こうして再エネ契約顧客は全て当該新電力が入庫した再エネ電気を消費することになる。
 物理的に確かなことは消費量と同じ再エネの量を「作らせた」「送配電線に投入させた」ということである。それで十分ではなかろうか。新電力の再エネを受入れる困難が解決し、再エネ電気を選んだ一般需要家の「作らせる注文」の思いを汲めるのだから。一般電力の同時同量をとる負担は従前と何ら変わらない。


(当該新電力は再エネを電気料金で仕入れ、1円プラスして販売する)


 当該新電力は契約顧客が一般電力と結んでいた契約電気料金で再エネ発電者から仕入れ、それに1円追加し販売する。需給が逼迫するようであれば差1円を一定にして販売と仕入れ値を上げる。当該新電力は再エネの良さを思う存分宣伝し販売し国民のために働く。需要家は再エネの付加価値を認めて購入し更に賦課金が減る。
 自宅の屋根で太陽光発電している一般需要家は必ずと言って良いほど再エネを応援し購入したいと願う人である。自家消費ができる昼は高く夜は低い時間帯別電気料金メニューで契約しているが、生活クラブ等の新電力に類似のメニューが無いことが切り替えの障害になっている。顧客の今現在の一般電力との契約メニューを顧客別にそのまま引き継げばよい。既に新電力が買い取りや発電し一般需要家に販売している再エネについては、同時同量に苦労しながらも顧客ニーズに応えたいと真摯なこれら新電力は自発的に当該新電力に再エネを譲るであろう。


(再エネを最優先給電する)

 天候により変動する電源である太陽光と風力は、平滑化、即ち同時同量に保つ系統運用と、電圧と周波数変動の調整、所謂アンシラリーサービスコストの負荷が大きい。今後、再エネが増えた時のためにこれらの対策が必要である。
 再エネについて、抑制止む無しとしたり最優先給電にしないことは、正に政策ミスである。太陽光、風力発電は極端に言えば存在するだけで発電する電源であるつまり、限界費用は殆どゼロで、出力制御できず電気を作りっぱなしにする電源である。抑制したい時、発電の止まらない電気を捨てなければならない。他電源は原燃料フィードを減らし作らないことができる。従って、再エネを最優先給電することこそエネルギーを無駄にしないことである。最優先給電とは平滑化の必要があり、どの電源を抑制調整するか選択する時、再エネは一番最後にする。これは欧州諸国では常識であるが、日本は一般電力の行う「電力安定供給」や「系統容量不足」を理由とした再エネの抑制や受入制限が安易に罷り通る。管区間系統の広域運用、上げのデマンドレスポンス、揚水発電の昼の蓄電利用、蓄電池の技術革新、太陽光と風力の気象予測システム等による周波数や需給調整の事前準備等、変動電源受け入れのための深化すべき様々な工夫や技術がある。再エネを最優先給電としない損失の方がこれらの技術利用を確かにするコストより遥かに大きい。
 出力調整できない原発をベースロードとして保持することは、変動を吸収する調整電源の調整幅(周波数調整、需給調整)が狭められ再エネ受け入れの制約になる。欧州諸国では再エネの大量導入のためにベースロード電源は消え去りつつある。


(原発が再エネを押さえ潰している)

 1970年代「繋ぎ」として導入加速された原発が「繋ぎ」の終わりの時が今ではないと足掻くように、当時も二者択一の宿命にあった再エネを押さえ潰すようにしている。賦課金の増加によって原発の事故による停止中のコストが隠さている。端的に言えば、原発コストが再エネコストに擦り変わっている。
 太陽光発電の不安定性の弊のみ声高に言われ、原発の出力調整できず夜も一定発電せざるを得ない欠点及び原発緊急停止への予備設備を必要とする欠点は言われない。系統運用上の難しさを増幅する点では同病である。ましてや太陽光発電の昼ピークカットのメリットは取り上げられることはない。太陽光発電の不安定性吸収電源設備の必要のみが言われ、再エネの究極の自給が原発の嘘の自給と同列にしか扱われない。クリーンさに至っては輪をかけて同様である。原発が停止中の空いた送電容量と揚水発電の再エネ接続拡大への有効性が重要視されない。
 原発に再エネが押さえ込まれた二つの数値、7%と20年がある。
 「長期エネルギー見通し」の2030年再エネ発電割合22%の内、僅かに7%の太陽光発電割合は、接続保留問題の原因になった2014年6月時点の認可量7,178万kw(792億kwh)が既に達している。失効ももちろん有るが、殆ど野立ての産業用であり、これくらいは、いざとなれば国策で正味原価で、しかも国産パネルを使い設備化も可能ということである。そして今後14年間で、もっと高い再エネ発電割合を目指し如何様にも工夫努力のしようがあるではないか。こうして太陽光が押さえられた分、原発の発電割合に置き換わった。
 太陽光発電の耐用年数20年は、「長期エネルギー見通し」において太陽光が原発を始め他エネルギーに比べ遥かにコスト高で中心的電源に成りえないと言うために恣意的に短くされたものである。固定価格買取制度の買取期間20年が「電源種別電気コスト比較」を経て、何故かそのまま流用され突き詰めた検討はされなかった。また耐用年数20年で算定された高すぎる固定買取価格が、莫大な賦課金を代償に普及の無用な急ぎ過ぎと接続保留問題を招き、国民を太陽光発電に対する無力感で覆った。「長期エネルギー見通し」における原発の発電割合20%は耐用年数40年から不確かで危険な60年への延長を見込んだ産物である。方や、太陽光発電の耐用年数は確かで大事な年数さえ無視されている。
 再エネは原発に虐げられ、原発の継続に加担さされ、実に許しがたいことである。


(一言で言えば「再エネを大事にする」こと)

 鎮具破具の極みを物ともしないように、再エネの普及にコストを掛けながらも、そのものを十把一絡げに扱うに止まらず軽んじ貶め便益を認めないで来た。将来国民の賦課金負担増大に苦しむのは、再エネを普及するからではない。回避可能費用を用いるから、もっと言えば再エネを正当に評価しない、大事にしないからである。仕入れる再エネ電気も販売するものも本来もっと価値が高いのである。「再エネを大事にする」ことが、今求められていることである。電気は電源は違っても出来た電気は同じなため良し悪しを言う商品ではなかったが、自由化で再エネ電気を分けて供給し、選べ作らせる注文ができるようになった今、大事にすることが出来る。再エネの「すぐ使える」、「送り届けなくて良い」、「一般需要家も作れる」、「究極の自給がなる」、「クリーンで原発に代替できる」、「放っておいても只で長く発電する」等、これら稀有の性質を認めて大事に育てることである。そして、盛り立て欠点は庇うような特別の配慮を行うことである。一般電力は再エネを買い取ることで不正に甘い汁を吸いながら、そのくせ再エネの普及は妨害しているのである。
 自由化の先行したドイツは再エネ電気の投売りによる市場の値崩れと調整火力の容量問題に苦しんでいる。英国と米国は価格安定という点では成功したとは言えない。 エンロンのように市民を犠牲に市場で価格操作する電力会社が多数あった。送配電網を共用しながらの自由競争は簡単ではない。安定供給と安定価格は誰が担保するか曖昧である。公営或いは独占の既存設備の払い下げを伴わない日本は異なる様相を呈するだろうが予想つかない。しかし、少なくとも「再エネを大事にする」ことで自由化の目的に含まれる電気料金の低下と電気の選択が叶えられる。限界費用ゼロの再エネ電気が市場に安く放出されることも無い。
 本提言は、再エネ電気を新電力に任せ一般需要家が選び地消するところは自由化に沿うが、他方、同時同量を免除される新電力一社が買取る点で自由という文字にはそぐはない。しかし「自由化」の文言を、再エネ電気を引き続き等閑にする口実にしてはいけない。制度は我々が作るもので我々を縛るものではない。制度法律と参加者の在り方を鳥瞰し目的に一直線に必要な所でルール変更や離脱が出来なければならない。ドイツ南部のシェーナウは原発電気を使いたくないと末端の配電網を買い取った上で地産地消を始めた。日本は再エネ電気の多少の配電線使用とアンシラリーコストに目を瞑り、一新電力会社に集めた再エネの同時同量を免除する度量を示せるかどうかである出来なければ、今回の小売全面自由化の成果は再エネは選べないままで、かつ原発継続を助けるだけに終わる。
 福島事故で国から資金を貰い国の自由化の方針に抗えなくなった一般電力であるが、今こそ無私な姿勢で電力の全体最適に導くよう尽くしてほしい。それが原発なくして存在意義を示す道であろう。先行している外国の真似ばかりではだめだ。資源エネルギー庁は、委員会や部会の垣根を越えて自由化と固定価格買取制度の施策を、国民を一番楽にするよう日本独自のものにカスタマイズしてほしい。国策もどきの会社を国策に扱うだけのことである。やろうとすれば出来る。
再エネが原発に取って変わるものであったことを忘れてはならない。再エネは原発にとり変われる、否現に、とり変わっている。美しい日本の土地を台無しにし、取り繕いに過ぎない除染の予算措置までして、電気は足りているのに原発をやらねばならない理由がどこにあるのか。事故が起こることを前提化しても尚やる。正気の沙汰ではない。我々の原発是非の判断が摺り替え、なし崩しによりいつのまにか大甘になっている。安全神話を信じていた時に立ち返れ。原発に代わるエネルギーがなく電気は足りなくても、原発事故は絶対に起こってはいけなかった。電気は足りている。原発に代わるエネルギーもできた。にも拘らず安全神話の時よりも、少しは事故が起きてもしょうがないとしてやっている今の可笑しさ、国民一人一人が自分のいい加減さを身に沁みて感じよう。政府の原発是非の考量はカジノの是非程度にたわいないのだ。人間の一番大事なものを差し出してお金を受け取るのである。物事の軽重判断の倒錯である。諦めることである。そうすれば、地産地消により再エネが免れる原発停止中のコストを始め、賠償、廃炉等事故コストは、福島の今回限りのコストとして国民が負う覚悟ができるのである。




2016年3月3日木曜日

原発再稼働をして復興がどうして成るというのか

東日本大震災復興基本法は「単なる災害復旧にとどまらない」「一人一人の人間が災害を乗り越えて豊かな人生を送ることができるようにする」ことを基本理念としている。物理的復興と同時に当然、心の復興を意味している。
しかし、原発を再稼動をしていて被災者の心の復興がどうして成るというのか。
遺体を探し出し葬式を済ますことと同じように、縁者の死を意味有るものにすることは、残された者が死者との別れを受け容れ人生と再び向き合うために必要なことである。私は3月11日のテレビで激流に流されていく人々を見ながら、もし自分ならば流されながら何を思うかを考えていた。「今、自分は不運にも死ぬが、こんなことも起こるのだよ。どうか残った人に自分の死を役立ててほしい」別れを一瞬に覚悟した後はこう思うしかないのではないか。無意識下に。亡くなった人は残された縁者の心の中に生き続け、残された者も亡くなった人の思いを思うようになる。地震と津波で死にゆく自分の死が、同じ原因で放射能を拡散する原発の本当の危険性を知らしめ軌道修正に繋げてほしいと祈っているに違いない。原発を止めることが、被害にあった人々に報い,鎮魂することである。報わなくて何の復興か。今生きている日本人が原発を尚使い続けることは、震災の死者の思いを裏切ることであり、残った人たちの心を踏みにじることである。

復興が心の面だけでなく物的な面でも進展が捗々しくなく地に足が着いたものにならない原因は原発を潔くきっぱり止めないからである。このことは、言葉を持たない死者、言葉を奪われた残された被災者、再稼動ありきの復興を司る者の三者の間にあって表に出て来ない。
放射性廃棄物の処理地を募る時、再稼動し今後も増え続けるのと、量はこれを持って最後だから引き取ってくれと言うのでは、受け入れる気持ちが起こるかどうか大きく違うことに気づくべきである。
除染作業で、庭の表土を5cm剥ぎ取り空間線量が1ミリシーベルト年を切ったからといっても、隈なく0.23マイクロシーベルト時間以下を測定したわけでない。また計器の翳し方によっても数値が振れる。コンクリート面の除染中に使った水の漏洩を防ぐのは難しい。長年、原発を安全と言い続け放射能の影響の研究を怠り今、原発再稼働に前のめりの学者達が大丈夫と言う計測の基準と方法についても今更俄かに信じるには不安がある。内部被曝についても未知である。放射能の人体に及ぼす惨状は報道で隠すようにされてきた。庭に埋められた汚染土の掘り起し移転はあくまで予定でしかない。予算の約六分の一しか末端の作業員に渡らない多重下請け構造を東電に放置させているからには手抜き工事もあろう。除染の仕事で行ったどこのお家の庭も庭木が荒れ放題であった。一旦汚染された土地で育つ庭木に対する愛情さえ消え去るのだ。除染が終われば変わるとしても、そうする他ないからだ。一旦汚染された土地に対する気持ち悪さは拭い去れない。国民が今自分が住む家と庭が汚染されたと想像できるかどうかである。敢えて土地価格に言及すれば、磐城、中通り、会津で暴落を免れているのは避難区域の人と除染労働者の流入があるからに過ぎない。安全でないと判明した原発、かくも憎い原発と隣り合わせに一度汚れた土地での生活に耐えても故郷に戻る人や住み続ける人以外には、新しい人や若い人が集まるわけがない。こうした中での産業の復興は、耐える覚悟で故郷に戻り住む域を出るものではない。
危険なものを普及させるために敢えて安全だと喧伝している内に、知らず知らず見据えるべき危険が他のものにすり替わり、危険への備えが疎かになる。他稿で述べた原発固有の「陥穽」である。原発の再稼動は今の政府にとっては復興の象徴なのだろうが、避難者に帰還を無理矢理迫る事態が示す通り、収束したとか復興が進展したと言いたいばかりに、福島事故の原因究明も終わらず、汚染地下水の漏洩も食い止められない内に拙速に他の原発を再稼動する。福島事故を齎した同じ陥穽にまた落ちようとしている。

私は昨年末3ヶ月間、福島市の宿舎から通い郡山で業としての住宅除染を行った。児童達を疎開させ残った親達の様子から、愛する土地を毀損された無念さと住む土地を否定するわけにいかない葛藤の狭間で、市から除染で回復が成ると言われれば黙るしかない諦観の様相がひしひしと窺えた。除染作業で被爆が原状復旧したとされ補償はこれきりなのだ。除染作業員はお宅の人からも町の人からも嫌われている。金目当て如何に関わらず当然であろう。私は庭木の汚染された枝を落とす時、剪定までしてあげることで少しでも和んで頂いた。
このような災禍を福島限りにする復興か再び同じ災禍を想定した復興かで、物と被災者の心の両面で達成の度合いと質が大きく違う。復興が再稼動の申し訳に行われているとは言わないまでも、原発を潔くきっぱりやめるということが復興にどんなに肝心なことかが失念された復興が行われている。