2018年11月17日土曜日

FIT法を訊す

意 見

1. 原則、再エネは全て新電力が買取り販売し、託送料金を課さない。新電力に支給する交付金を売価と回避可能価格の差だけ減らす。
2. 再エネ発電所の電気自動車への給電サービスの自由化。
    給電サービス量の過不足を吸収出来るように系統に連系したままとする。   
3. 既に、固定買取価格上でさえ優にグリッドパリティーを達成した今後の太陽光は、!. においてFITを離脱する。
    賦課金が無くなるだけでなく、既にコストは10円/kWhを下回っているので電気料金を下げるように働く

  千葉の台風被害による停電の後、産業用太陽光の自家消費を推進すする方針を資源エネ庁が出した。そしてそれに違うものはFIT買取をやめると言っている。ではいくらで買取というのか。買取をやめるというなら今更やめる権利があるのか。流石に電気料金を大幅に下回るコストになっても賦課金が発生する仕組みが後ろめたくなったのであろう。正当に扱えば最低、電気料金の価値あるものを無駄にし、その付けを国民に賦課金という形で補填させていることに気づかれては困るという判断であろう。

4. 社会のトータル利益を考えながら最も効率的に運用する為に、送配電網の国有化を厭わない。

 いずれも、何らかの理由で新電力が買取り販売出来ない場合のみFITの現行のスキームによる。   


理 由
 需要地に近い所で作られる再エネ電気はその場で少なくとも電気料金の価値がある。それが、一般電力会社に買取られることにより置き換わる火力の費用、しかも設備費を考慮しない仕入燃料費でしか評価されない。つまり、せっかく地産地消されている再エネ電気を火力燃料と同じに一極集中発電所において仕入れ送配電し供給したことにする。また、膨大な賦課金負担の犠牲のもとに促進しながら、即ち再エネの稀少性を認めたFITという施策を取りながら、一方で火力燃料費並みに蔑めるのは、一般電力会社を助ける余念があるのか、中途半端を越して逆行と言える政策矛盾である。
太陽光発電の潮流改善効果や、ピークカット効果を見ないで変動電源の難や送電容量制約のみを殊更言い、再エネを排除しようとすることと同根である。
 この指摘を、再エネ電気をどう評価しようが、需要家が固定買取価格を電気料金と賦課金のどちらで負担するかの割振りだけのことと切り棄てるのは、総括原価方式の枠内での考え方であり電力自由化がなった今、許されるものでない。

 現に、支払に疑問を抱く賦課金が膨大に発生する。
 発電と同時に近隣で即、消費されている実際の電気の流れ通りに電気料金で評価すれば予定されている賦課金の7割、20兆円以上が減る。発電所から電気自動車に直に補給すれば配電網さえ使わず、電気料金の近似値で売れることを想えば、これと大差ない。
 また、原発電気の混ざらない再エネを使いたいという需要家のニーズも満たせる。再エネの導入を促進するということは、その稀少性を認め、クリーンな付加価値を認め、需要家のニーズを認めることであり、それを売価へ具現化出来、その分賦課金を更に減らせられるということである。FITと言う政策を最大限、効率的に運用する為、最小の賦課金で最大の普及効果を得る為に、縦割りの非効率な施策を一気通貫のものにすることだ。普及インセンティブの国民負担だけでなく、再エネ電気の配電網使用の無償化を通じた電力会社の再エネ振興コスト負担があって良い。

 給電サービスは、給電ステーションを全国各所に作りたい自動車業界の思惑に合致する。車が大きな蓄電池となり変動電源と送電容量の障礙が緩和される。民生用電気の電気自動車での運搬も可能になる。






2018年8月8日水曜日

エネルギー基本計画の五つの擦れ違い

 今年の7月3日に閣議決定されたエネルギー基本計画の内容は国民の意見と、殆ど噛み合っていない。国のエネルギーに関する長期方針が、こんなことでよいのだろうか。政府、官僚、電力会社の方針だからよいとでもいうのだろうか。「パブリックコメント」は資源エネ庁の会議室で、それと経産省の考え方の対照表及び、策定中募集された「意見箱」はホームページで読んだ。そして噛み合っていない原因を考えて見た。五つの擦れ違いが有ると思う。読んだことを咀嚼して自分の思うことも書いた。


 視点として3E+Sの設定し、安全性のSを大前提に三つのE、即ちエネルギーの安定供給、コスト低減、温暖化対策に最大限取り組むようエネルギーミックスを決めるという。一番大きな擦れ違いは安全性の視点Sの用い方である。経産省は、安全性Sを除く三つのEの視点から原発は欠かせないという評価を出しその後、原発の安全性の担保を原子力規制委員会の規制基準に委ねている。それに対し大多数の国民の意見の根底に有るSの視点の用い方は、原発無くても電気は足りていることに鑑み、三つのEが持ち堪えられる限り原発ゼロを目指し、三つのEがどこまで持ち堪えられるか、持ち堪える方法や努力の仕方の必死で切実な検討である。大半の国民の意見を見れば、どんなことをしてもやめてほしいと言う魂の叫びである。廃炉に必要なお金は日銀券増刷分を当ててもいいと言っている。放射性廃棄物の処分の引き受けを国民に迫るなら、その前に、動かすことより廃炉に専念してほしいと言っている。福島事故後、事故は起こることを認めてから特に、人間が原発を安全に扱えるか、原発の危険に対するに足る覚悟が出来るかを問題にしている。
 私はかく思う。安全神話に隠されていたものは、扱いにくい原発の危険に、人間固有の懲りない杜撰さ、あさましさ、弱さが合体する危険である。忖度したり自分の経済に負け優先させてしまう弱さである。周りに安全と言えば言うほど、その内、自分でもその気になり安全の備えを怠るモラルハザード。人間のための原発のはずが、いつの間にか人間の尊厳を原発の下位にして、しかもその事に気づかない弱さ。戦争状態に陥る弱さも含めてである。
原発を容認する人々の意見を読んで思うことは、彼らは福島で分かった原発事故の無力と悲惨に知らず知らず、目を背けているのではないか、安全を考える上でのスパンが短か過ぎということである。

 二番目は、原発のコストの捉え方のすれ違いである。経産省は原発のコストを電気料金を構成するコストの範囲で考えているのに対し、大半の国民は電気料金に拘らず、原発の真のコストを問題にしている。
 原発は不確定で、長期的で未知で、金額換算しにくいコストが多い。これらは、三つの指標の間に落ち結局は取り漏らされている。手当てしようのあるもの、いや、したものだけをコストと言っている。
 健康被害や自然破壊は取り返しが付かない。分からない放射能の影響を心配するのもコストである。帰還できないでいる事を見ても、ひとたびの汚染は土地の喪失である。運転の都度発生する使用済み燃料は、準国産でも資産でもあろうはずがない。その処分コストは誰もが受け入れないほど大きい。ましてや子孫の迷惑は端から忘れられている。
 現世代に請求できるコストに限らざるをえない電気料金には、これらの多くが含まれない。洩れたコストは、将来世代に付け回されるか支払われない賠償金のように代償されないだけで、無くなりはしない。
 私はかく思う。経産省は、これらのコストを、国民の過剰な懸念のせいにする。だから、懸念を解消するように社会的信頼を獲得することを、ここぞとばかりに基本計画に盛る。福島事故の被害を少しでも小さく見せることに窮久としているのに何をか言わんやである。そして、ただ、少しでも安い電気料金の提示と引き換えに国民に信頼を強要する。

 第三は、太陽光・風力は当然、温暖化対策に当然資すると考える大半の国民の意見に対し、経産省は変動の調整のため火力を伴い、単独で脱炭素化は出来ないと考えている。
 しかし、太陽光・風力の電気が置き換わるのは、一定発電の原発ではなく今、発電している火力である。間違いなく、置き換えられた火力のCO2は減る。追加的に火力発電を伴うことは無い。太陽光は晴れの時は需要カーブに合った発電をする。そしてその割合を上げる手段は多く、コジェネや揚水発電等の脱炭素化電源で調整する手法、発電した所で出来るだけ販売する方法もある。やる気があるかどうかである。
因みに、きめ細かさの違いはあれ、調整を要するのは、出力制御できず単独では需要に合わせられない電源の仲間である原発とて同じである。緊急停止に備えた予備火力も原発は要る。原発だけがベースロードという特権を与えられ火力の調整幅を喰う。太陽光・風力賦課金という犠牲を払っても促進している。燃料費の何の節減にもならない太陽光・風力を抑えないで、古いベースロードという考え方よりも柔軟性の確保の方が大事だ。ましてや、運転中に漏出する放射性物質の有害度はCO2どころではない。発生熱量の3分の2を温排水という形で海に流し地球を温めている。


・原発は放射能を出す電源だという国民の意見に対し、ゼロエミッション電源として環境の観点から何も欠点を言わない経産省の意見233ページ
発電時以外のウラン鉱山 温排水









資源豊富国    一回目 原発ゼロの会 214ページ

ドイツ 脱原発、石炭に野心的に取り組んでいる。

・石炭火力について
・テロ、戦争に対する不安
東大法学部     しっかりしろ 大手電力会社

2・24  40ページ  到達可能ミックス 東電原発 東京都の責任  沖縄と同じ構図 柏崎狩羽も親切も難しい

資源国かいなか

原発クリーンエネではない

テロの備えをすると 原発の建設コストが2倍以上になること。
2、クリーンエネルギーのコストはどんどん安くなって、原子力よりも火力よりも安くなったこと。
3、原発は海温め装置であり、地球を温めている元凶の1つであること。

11月14日、東京新聞の2面トップ記事


 第四は、太陽光・風力のコスト認識の違いである。世界的な急速なコスト低下と普及拡大に、日本も、と大いに期待する大半の国民の意見に対し、資源エネ庁は賦課金の国民負担をコストに含めて捉え、その依然高いコストの低下が課題と言う。
 しかし、買取価格は20年間変わらない。それを補填する賦課金支払いも20年間変わらない。従って、賦課金は、今後の太陽光のコストには埋没原価であり導入ポテンッシャルには無関連である。経産省の言い振りは、再エネを促進するインセンティブを阻害要因に変えてしまう自己否定である。そして、日本の太陽光のコストは海外パネルを使い低下が著しく既にグリッドパリティーの半分に達している。

 私はかく思う。その賦課金を抑えることは、むしろ経産省、自らが負う課題である。経産省が自ら招いた制度初期の冗長な賦課金の認可未実施分の淘汰のことではない。
太陽光の発電され自家消費された残りの電気は、逆潮流といっても送配電線
の僅かを通るだけである。

既に決まった賦課金については、太陽光発電者が電気を送電線に送り込まず、その場で販売出来れば、託送料が掛からない分、今からでも減らすことが出来る。
今後決まる賦課金については、日本の太陽光のコストも海外パネルを使い低下が著しく既にグリッドパリティーの半分に達している今、固定価格買取制度に依らなければ、賦課金が無くなる上、電気料金より安く売ることも可能である。それを、送配電線を僅かに使っているがために、一般電力を助けるようにFITに依っている。送配電線を使う影響は需要の変動とも言える。発電した所で販売すれば文句無くFITを離れられる。例えば、借家人や近隣への電気販売の自由化、電気自動車への給電である。この方向で経産省は施策してほしい。尚、電気自動車は強力なデマンドレスポンスのツールになる。

 資源エネ庁は第三、四の考え方から、2030年の発電シェアを、原子力と再エネを合わせたゼロエミッション電源44%の内、太陽光を7%、風力を1.7%とした。太陽光の現時点の発電シェアは6%弱に達し認可済み案件の一部を含めれば7%を既に超えている。今後12年間の伸び代が、あろうことかマイナスである。
 私はかく思う。せっかくコストをかけ促進している再エネに抑制をかけなければならない政策矛盾が将来どうなるかわからない原発の枠取りの為に行われている。これがべースロードということか。送電でも。CO2削減目標に達しそうにない時、待ち構えて居さえすれば、あわや原発の再稼働と、許されるとでも思っているのだろうか。

第五は、大半の国民の核燃料サイクルはもうやめようという意見に対し、経産省は継続するという。もんじゅの廃止が決まったら、今度はプルトニウムを減らすため、MOX燃料による軽水炉でのプルサーマル運転、即ち原発の再稼働をすると言う。かと思いきや減らすべきプルトニウムを使用済み燃料から取り出す再処理もやめず、MOX燃料にし軽水炉で利用するという。本末転倒である。
 私はかく思う。この計画は再稼働を必然とすると言うが、使用済み燃料の問題を隠す。バックエンドも安全神話の加護の元にあったではないか。バックエンドについて、原子力規制庁の安全性Sの視点からの検討はされていないではないか。




・策定中募集した「意見箱」
・基本計画(案)に対する「パブリックコメント」
・比較表も






安全神話から醒めたと事故を想定し、それをEの一つのコストに見積もり、安全性Sの検討は安全だと言わない規制基準に委ねた。この基準は安全だとは言わない。見積もったコストはおざなりだが、安全が経産省の言うコストだとは認めていない。
安全を分断し、お金、しかも今負担可能、測定可能、お金に換算するトリックである。
安全性を経済合理性に解体し

・2014年、前回の基本計画策定から3年間の情勢変化は無いとする政府に対し、大きく変わったとする国民  (3,26意見2/3)  一回目 原発ゼロの会
ネット 事故後の惨状
経産省は安全神話に醒め、福島級の事故を4000年炉に一回起こるとしてコストに参入してよしとした。福島事故の惨状が明らかになりその重さは当時より大きくなった。今では一度でも福島のような事故が起こってはならないと今は思っている。


使用済み燃料もプルトニウムも、減らすのは再稼働をやめること。
再稼働、サイクル、再処理  ーーー同時に止めるもの


規制委員会の判断に委ねる 再稼働申請に対し必ず許可の予め想定 越権行為 原発22%  if 火力削減 結果としてzeroemi 44%以上むしろ歓迎

石炭火力 原発でCO2相殺

40%ぐらうなら今の電力システムでも 太陽光、風力

再エネ賦課金 火力の減で国民負担になっていない

2018年6月22日金曜日

我々は何故、原発を再稼働するか、そして気付かねばならないこと

 原発のコストは、不確定で、長期的で未知で、金額換算しにくいものをたくさん含む。電気料金として現世代に請求できるものに限らざるを得ない算定コストには、これらの多くが捕捉されないで有る。洩れたコストは将来世代に付け回されるか、支払われない賠償金のように代償されないだけで無くなりはしない。資源エネルギー庁は、社会的理解を得れば無くなると言う。避難訓練をするのも、分からない放射線の影響に人が不安に思うのもコストである。除染が済んでも帰還者の少ないことから、土地のひとたびの汚染は土地の喪失であることに気付く。土地汚染コストを代償するには、除染費ではもちろん、放射能の及ぶ長い時間から見れば借地権に過ぎない土地代なぞで済むわけがない。
 原発の建設費は、一基4.4千億円で見ていたものが、今や安全対策費の上昇により1兆円を超える。資本費において発電1kWh当たり、太陽光とほぼ同じになった。資本費以外の費用の差が両者のコスト差であり、これらの洩れたコストが大きい。燃料費と運転維持費は住宅用太陽光に至ってはほぼゼロであることを見れば、太陽光は高く原発は低く歪められるコストの本当の所が分かろうというものである。
 
 前述の洩れたコストに目を背ける我々を、再稼働に駆り立てるのは、原発の動かした時と停止している時の少ないコスト差と危険度差である。減損費も含め資金も技術もなく、他にしようがないから止めたままでいる原発を少しコストを掛けて事故が無いだろう運転すれば、原発停止を補う代替火力の燃料費1.5兆円を節減出来、電気料金の上昇を抑えられると考える。しかし、この少ないコスト差や危険度差も電気料金の上のことで真実ではない。
 運転した時だけ掛かる主なコストは燃料費と使用後燃料の処分費である。電気料金の前提の核燃料サイクル方式では、これらの費用は将来再処理抽出されるプルトニウムという資産に棚上げ打ち消される部分が大きい。しかも見積もりの金額は原発の安価神話と電気料金規制により抑えられ、何よりも、核廃棄物の処分地として国民がすんなり受け入れる前提である。しかし、核燃料サイクルは破綻しプルトニウムはゴミと化し再処理は無意味となり、再稼働すれば運転の都度、外国に依存する燃料を消費し全量使用済み燃料を間違いなく生み出す。この使用済み燃料は誰もが引き受けを断るほど、10万年も掛かり続けるほど、莫大な処分費が掛かる。

我々は、原発の真実のコストを補償できないまま再稼働する心の底の罪悪感を、原発の真実のコストを捉えていない電気料金に全面的に依拠することによって、押し隠す。核兵器の原料を作るための発電、或いは将来の核保有が目的の政治家と官僚がどうあれ、我々は彼らに操作、誘導もされ上記の論理で再稼働を許す

 我々はもうそんなことをしないで良いように、原発をきっぱりやめられるように、今、二つの問いを発する時である。
 我々国民は原発をやめるためなら、どんな負担も甘受するのではなかろうか。やめるためのお金こそ国が日銀にお札を刷らせ工面し、その影響をどう被ろうと国民は我慢するのではないか。使用済み燃料も、もうこれっきりならば国民は受け入れるのではないか。原発をやめられれば賦課金の支払いも厭わないのではないか。
 二つ目の問いは、原発無くて出来る限りのCO2削減目標で何故いけないのか。CO2の削減は、それより悪い放射能を出してまでやることではない。

 

2018年6月16日土曜日

エネルギー基本計画のパブリックコメント

 確かなことは、原発はやめられるなら、やめるに越したことはない電源だということ。そして、確かなことは今、原発が無くてもやっていけているということ。
「やめなければ」と切実に思っていない人でも、この二つで、原発をやめるに十分ではないか。
 CO2削減のために原発を再稼働することは、CO2より悪い放射能を出す原発として本末転倒である。原発をやめることは、CO2削減より遥かに重い。全力で原発ゼロで持ち堪え創意工夫してみてもなお削減が足りないなら、そのことと福島の状況を世界に説明し削減の遅れを情状酌量してもらおうではないか。どこまで出来るかやってみるつもりで、基本計画を原発ゼロの目標値で作り直すべきである。
 基本計画の、2030年、太陽光の比率7%は、現在、既に7割強達成し認可未稼働分を含めれば優に超えているので、今後12年間、認可を一部取り消し新たな設備認可はゼロという数値である。原発ゼロどころか真逆の太陽光ゼロの計画である。
 資源エネ庁の失敗による無駄な賦課金を太陽光のコストのせいにして、いつまでも太陽光はコスト低減が課題と言い続ける。太陽光・風力は火力を伴い、蓄電池も高いのでCO2削減が出来ないと一点張りで真価を生かそうとしない。
 太陽光のコストの低下は予想を遥かに超え、既に10円/kWhを割っている。送配電線を使用しない太陽光・風力の電気を消費する簡単で確実な方法も有る。例えば、電気自動車への補給等である。
 原発をやめるに必要なお金は、「アベノミクス」の日銀増刷券で賄おう。その影響をどう被ろうと、国民は原発をやめられるなら耐え忍ぶ。使用済み燃料も原発をやめるなら引き受ける。

2018年4月14日土曜日

もりかけ問題の本質

 もりかけ問題は安倍首相が随所に忖度があることを分かりながら、それに委ねていることからして既に不正である。「妻が関与しているなら首相を辞める」は「関与の証拠を有れば隠せ」という役人へのサインになる。
 安倍首相は選ばれた人には、大きなことを成し遂げれば小さな不正は許されるという、ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフのような考え方をする人かもしれない。日本経済を向上させれば、もりかけ問題の数億円や一大学の新設は許される。拝金主義者の本領である。
 しかし、安倍首相がやろうとしている大きなことは経済だけでない。他に大きなことが、小さなことと同じやり方でなされることが怖いのである。済んだことは集団的自衛権、進行中のものでは原発とその輸出、将来は憲法9条。
 役人は議員の個人情報を掴み、黙らせる。安倍首相が役人を通じて議員を黙らせるのは朝飯前だ。そして、国民が自由に議論する、或いは考える機会を摘むことだけに終止する。



2018年1月18日木曜日

再エネ電気を解き放て


 自動車はガソリンスタンドにガソリンを取りに行く。電気自動車は発電所に電気を取りに行ける。分散して在る再エネ発電所の産した電気を、電気自動車が送電線に全く頼らないで消費することができる。地産地消とは出来たものをもとより持つ価値どおり生かし使うということである。再エネの本来具有する真価を生かしさえすれば、固定価格買取制度(以下、FITと言う)賦課金の過酷から国民を救済し、また原発をやめることができる。
 せっかく消費地に近い所で作られる電気を何故、わざわざ大手電力に売り、一旦、一極集中の発電所に集め、またフルの託送料をかけて買うような面倒なことをするのか。何故クリーンさで溢れる再エネを回避可能な火力などの代わりに送り届けるのか。何故、その場ですぐ売って使わないのか。発電された電気そのものを直接手にすることができるではないか。余計な賦課金が無くなるではないか。振興したい電気なら少なくとも、まず、その持つ価値を活かすのが普通だろう。振興したいものをわざわざ虐げて何故振興できるのか。

 電力会社が再エネ発電所から買い取る時、電力会社は発電所に固定買取価格で支払い、負担する回避可能費用の約9円/kWhとの差額を国から交付金を受ける。回避可能費用とは電力会社が再エネを入れて無くせる、即ち回避できる火力燃料価格である。回避できる設備費は長期的なこととして考慮されていない。再エネを入れたことで電力会社の損得が変わらないよう配慮されている。火力燃料の代わりに再エネ電気を仕入れ、わざわざ一極集中発電所から末端需要家まで送配電線で送り届けることと同じ意味を帯びてくる。
 しかし、再エネ電気は自家消費されているようにその場ですぐ使える。消費地に散在する発電所の余剰電気は配電線を通っても近い負荷から順に殆ど自家消費のように使われている。当然、電気料金26円/kWhの価値は少なくとも有る。これが9円/kWh に17円も貶められる。交付金の原資は賦課金であり、この17円/kWhも国民の賦課金で埋め合わせている。電力が買い取っても同じである。送配電線に少しでも乗る限り、一般電力と同じ回避可能価格を負担するように交付金を受け、託送料金を課せられ販売する。尚、電気の取引は単に財務的なことで、それがどうあれ、電気の物理的な流れは変わらない。
 この回避可能費用を埋め合わせている17円/kWhの賦課金が何かというと、一極集中発電所から末端の需要家まで送り届ける費用でないならば、総括原価方式の中で共に公表されず埋没しているという点で、停止中の原発を維持する費用、年1.4兆円に充当されている。賦課金の意味の無い賦課金である。固定買取価格が電気料金以下になった今後は、この無意味な賦課金のためだけにFITが有る。
 再エネ発電所が、電気を送配電線に乗せず需要家に直接売れば、回避可能費用を埋め合わせている17円/kWhの賦課金は無くせる。電気料金で売り、固定買取価格との差の交付金を発電所が受け取る。発電所が電気自動車に給電すればこれが出来る。間に新電力が入っても良い。その場合は送配電線に乗せないから、新電力は託送料金を掛けられず受け取る交付金は埋め合わせの賦課金だけ少なくてよい。
 太陽光発電だけ取ってみても、埋め合わせの賦課金は37兆円と膨大な金額である。この内、発電所ごと買取の期間20年間の今後の発電分について、電気自動車に給電すれば無くなる。既に払った埋め合わせの賦課金、即ちFITが始まって8年間で10兆円とすると、残り27兆円程が、電気自動車に給電することにより減らせるチャンスがある。

 埋め合わせの賦課金37兆円の算出過程は以下の通りである。
太陽光発電の固定買取価格は、産業用が40円から始まり今18円/kWh(住宅用が42円から今26円/kWh)に推移しいることから、今まで認可され稼働する設備の買取の平均価格を31/kWhとしよう。賦課金は回避可能価格9円を越える22円/kWh。埋め合わせの賦課金17円/kWhはその77%。今までの設備の賦課金の77%、固定買取価格が電気料金以下になった今後の設備については全部が埋め合わせの賦課金である。
2017年に電力中央研究所買取りの終わる2050年までの累積賦課金額を69兆円と試算している。この内、太陽光は45兆円としよう。内、今後、認可稼働する設備分を10兆円としよう。この全部とこれを除いたものの77%が埋め合わせの賦課金で37兆円 [(45−10)x77%+10 ]。

 FITを外れ買取期間が終わった後も、国民に直接売ることである。何故かを、FITに触れながら述べる。
固定買取価格の元になる「各再エネ発電コスト」は、エネルギー長期受給見通しの中の「電源種別電気コスト比較」と当然ながら算定の諸元は互いに整合している。資源エネルギー庁はその長期受給見通しやその前に行われる基本計画の策定において、原発とエネルギーの特質が競合し代替的な再エネ、中でもポテンシャルが十分で二者択一にもなりそうな太陽光はコスト競争力が極めて劣るという議論を展開した。太陽光のコストは恣意的に高く算定され、それが元になる固定買取価格も高くなった。一部のメガソーラー業者の利益誘導に引っ張られたただけではなかった。
 2012年に制度開始して3年ぐらい、この甘すぎる買取価格を察知した事業者が設備認可を求めて殺到し、高い買取価格、つまり賦課金の大きい設備が制度を通して偏って多く占めるに至った。製造技術向上や量産効果による設備費の低下に連れて着実に普及すればよいものを、大規模ソーラーの正に無用に早すぎる設置により、20年間の冗長な賦課金の支払いを背負い込んだ。国民には太陽光のコストは高くて原発には置き換われないと思わせるに十分なほど高い価格で、賦課金を負担する立場でもある個人の住宅用太陽光の普及は停滞している。
 固定買取価格は、設備費等総コストを稼働する期間の売電収入で回収できる、発電量当たり単価で決められる。収入や支出の現在との時間差は割引率で調整される。この割引率による割引額が利潤である。
 尚、コストの比較においては、収入の割引額の利潤これを資源エネ庁はIRR相当と言っている)を除く。FIT対象ということで収入に加えたインセンティブを原発の立地交付金等と同列に政策経費コストとして扱うなら、IRR相当からその部分を抽出したものだけである。もっとも、IRR相当全体が他エネルギーの利潤、即ち電力会社の利潤を越えない範囲ならば無視してよいものである。
 太陽光の、燃料と運転業務を要しない低いリスクを全く考慮しない高い割引率、産業用の設備認定から着工までの約3年の間に起こる設備価格の急低下を見落とした設備費が諸元とされた。
 固定買取価格を高くする恣意性の最たる諸元が稼働期間である。稼働期間を関係事業者からのヒアリングという安易な方法で、あろうことか産業用買取期間と同じ20年とした。太陽光の発電耐用年数はメーカーの25年や30年の発電量保証期間や過去の設備から考察して35年としても決して長くはない。太陽光初期の技術で設置された長崎県尾上島灯台(シャープ1966年設置)、奈良県壷阪寺の観音像の照明(シャープ1983年設置)、千葉県佐倉ソーラーセンター(京セラ1984年設置)が今も立派に発電している。
 前提の稼働期間を超えて発電される電気が有り、その電気を当初、勘定に入れず算定された固定買取価格はその分嵩上げされ賦課金を増やす。従って、前提の稼働期間(20年)の後の電気は、その賦課金を既に負担し終わった国民のものである。
 電力会社の買取期間(20年)経過後の買取価格は、固定買取価格から交付金が外れた、即ち負担していた価格と同じ回避可能費用の9円/kWhとほぼ同じ価格になるらしい。これでは国民の財産をメガソーラーと電力会社で山分けするようなものだ。国民に、より低廉に発電所が電気自動車の補給を通じ売れば、太陽光発電の耐久能力が実力通り生かされ払い過ぎた賦課金が国民に還元される。
 住宅用の太陽光の買取期間は10年で2019年から早速,、買取価格が円/kWhになるものが出始める。発電者にとり2019年問題と言われ憂慮されている。しかし、この方針が出る前までは、買取期間後の買取価格は当時の買取の一般的価格の電気料金で固定価格の算定に織り込まれている。
 2002年からのRPS法では、電気料金で買い取られていた。2009年に始まった住宅用太陽光の買い取り優遇制度でも、その電気料金に10年間、色を付けるというものだった。2012年、全量買電制度が始まった時から電力会社に何の負担もない回避可能価格になったが、買取期間後の買取価格とは切り離されていた。
 原発が止まり電気を補おうと自宅の屋根に設置した国民の代表が損してまで、電気が足りてもなお原発を保持する電力会社を支援することになる。21年目以降は産業用と同様、広く国民に還元するのが正しい。充電器を付けマイカーに補給して自家消費を増やし、それでも余剰の電気はご近所の電気自動車にも売ればよい。11年目からは出来るだけ電気料金に近い価格で、そして21年目以降は低廉な価格で。
 
 2015年の「エネルギー長期受給見通し」策定において、福島事故を起こしても尚、原発を継続する理由として、資源エネルギー庁はCO2削減、自給率コストの三つ、即ち3Eにおいて原発が電源種の中でトップであることを上げた。前回2010年策定時の3Eに加え、安全性のSにより、事故コストを原発のコストに見積もり、策定方針を、民主党政権発足時の高いCO2削減目標における原発の推進から必要最小限に変更した。具体的にはゼロエミッション電源、即ち原発と再エネを合わせた比率70%を44%に下げ、内、原発が3Eでトップだから2030年20〜22%どうしても必要とした。3.11後原発ゼロの期間が有ったにも拘らず、前年の2014年に策定されたエネルギー基本計画でも原発はベースロード電源として位置付けられているからと、原発をゼロでいけるかどうかという定量的な議論・検討は一切無かった。
 この時、資源エネルギー庁はCO2削減では、自然条件によって出力が大きく変動し調整電源として火力を伴う太陽光と風力は削減効果が火力に打ち消され、原発には置き換われないと断じた。そして、自然条件に左右されない地熱・水力・バイオを原発に置き換わる再エネとした。発電が常にフラットな原発をのこぎり刃状に変動する太陽光、風力で直接置き換えようとするなら資源エネ庁の言う通りであろう。しかし、原発は火力を一定発電で置き換え、太陽光と風力は変動発電で火力を置き換え、それぞれCO2を削減する。後者の変動を調整し吸収するのは、元々残っている火力他の電源と変動する需要そのものである。この吸収の幅を一定発電しかできない原発が狭める。というだけの話である。
 別の説明の仕方をすると、原発は一定発電しかできず、夜の余剰電気は揚水式水力で吸収し、昼の高い需要を火力で補っていると言える。太陽光・風力を火力で調整しなければならないことと何の違いが有ろうか。柔軟に発電量を操作出来ない電源は、どの道、それが出来る電源に補完され大変さは同じである。太陽光・風力にCO2の出ない揚水発電による調整も可能だ。だから、CO2削減を原発が出来、太陽光・風力は出来ないというのは詭弁である。
 尚、この揚水式水力はコストもシェアも再エネとしてカウントされていることは、原発シェアを伸びやすく働く。
 そして目的のエネルギーミックスは、発電設備構成でなく発電量の構成である。結局、系統安定の技術や費用の違いは有るにしても、置き換えは出来ないというのは間違いである。単に太陽光・風力よりも原発を選択したいと言っているにすぎない。
 原発がCO2より悪い放射能他の危険物質や温排水を放出することは一顧だにされなかった。太陽光の環境問題は避けるべきでも、原発のように取り返しのつかないように自然を破壊するものではないことはミックス論議で踏まえておくべきことである。それに住宅の屋根はいっぱい空いている。
 出来た電気を送電線に送り込まなければ、変動の調整はもちろん送配電容量も不要で系統を不安定にすることもない。自動車の動力補給は毎日でないし、1日では日照時に多く、電気自動車は太陽光のピーク電力を掬い取る。こうして電気自動車全体で巨大な蓄電池の役割を果たす。しかも、後で関係するが、移動できる、電気を運ぶことの出来る蓄電池である。足りない時は買電によるものの、分岐の売電メーターにより発電所から電気自動車に直接補給し、自家消費を除いては全てが送配電線に送り込まれる電気量は逓減することができる。こうして、電気自動車が太陽光と風力の送配電線にかける負荷の問題を解決し、一気に電源比率の上の制約から解放される。
資源エネルギー庁に有無を言わせず太陽光と風力はクリーンさが100%生かされ環境のEで原発を凌ぎ、原発に置き換わりうる
 元々、火力の輸入を増やすことはないので安定供給のEでも原発を凌ぐ。送電網に頼らない完全に分散独立した電力となり、一基が事故を起こせば全てが止まる原発の対極に至り、国内における供給安定性で原発を遥かに凌駕する。
 原発のコストは、不確定で、長期的で未知で、金額換算しにくいものがたくさん有る。現世代に電気料金として請求できるものに限らざるを得ない算定されるコストには、これらの多くが捕捉されないで有る。洩れたコストは将来世代に付け回されるか、支払われない賠償金のように代償されないだけで無くなりはしない。資源エネ庁は社会的理解を得れば無くせると言う。分からない放射線の影響に人が不安に思うのもコストである。除染が済んでも帰還者の少ないことから、ひとたびの汚染は土地の喪失であることに気付く。除染費ではもちろん、放射能の及ぶ長い時間から見れば借地権に過ぎない現世代への土地代なぞで、土地の汚染コストが代償されるべくもない。
 原発の建設費は、4.4千億円で見ていたものが、今では安全対策費の上昇により1兆円を超える。資本費において、発電1kWh当たり、太陽光とほぼ同じになった。洩れたコストも含め、それ以外の費用の差が両者のコスト差となる。運転維持費と燃料費は、住宅用太陽光に至ってはほぼゼロであることを見れば、太陽光は高く原発は低く歪められれるコストの本当の所を知るに、この一事で十分である。
 この原発の動かした時と停止している時の少ないコスト差が、我々を再稼働に駆らせる。廃炉しようにも今すぐ、減損費も含めお金も技術も無く、他にしようがないから停止のままでいる原発を少しのコストをかけ事故が無いだろう運転できれば、原発停止を補い代替している火力燃料費1.5兆円を削減出来、電気料金を抑えられると考える。しかし、原発のこの少ないコスト差も電気料金の上でのことで、真実ではない。電気料金の前提の核燃料サイクル方式では、コスト差の太宗の燃料費と廃棄物処分費はプルトニウムという資産に棚上げされ打ち消される部分が大きく、しかも、安価神話と料金規制により金額は抑えられている。何よりも、核廃棄物を処分地として国民がすんなり受け容れる前提である。しかし、核燃サイクルは破綻し再稼働すれば、外国に依存する燃料を消費し、国民の誰もが引き受けを断るほど、10万年も掛かり続ける程、膨大な処分費が掛かる使用済み燃料を、運転の都度、間違いなく生み出す。
原発のコストの話をする前に、我々は原発の真実のコストを捉えていない電気料金に全面依拠することによって、原発の真実のコストを補償できない心の底の在悪感を補償していることに気付かねばならない。
 本来ベースロード電源とは、指令に応じて出力を変えられないものを言い、原発や太陽光や風力がこれに当たる。ミックスに含めたらベースに置くしかないといううに過ぎず何か必要性を示すものではない。資源エネ庁の言うベースロード電源の定義、コストが安く一定発電するものとしても、原発のコスト安が嘘だと分かった今、ベースロードだから原発がミックスに無くてはならないとはならない。指令に応じて出力を変えられない欠点を、CO2削減で太陽光・風力だけ殊更論い、ベースロード電源では、原発だけ逆に長所のように言う。限界費用がゼロの再エネを如何に捨てずに無駄なく使うか大事でベースロード電源という考え方は非現実的である。
 原発は三つのEの二つで最悪で、どれ一つとして原発を保持する理由がない。

 長期受給見通しにおける方針の一つに、「自然条件によって出力が大きく変動し、調整電源としての火力を伴う太陽光と風力は、国民負担抑制とのバランスを踏まえつつ、電力コストを現状よりも引き下げる範囲で最大限導入することを見込む」ということがあった。この結果、太陽光は2030年発電比率7%とされた。これは前年の2014年に系統接続保留問題を引き起こした設備認可量71百万kWとほぼ同量であった。この方針の意味は、原発に置き換わり得ないと決めた太陽光・風力は賦課金を含めてのコストが電気代を下げるように寄与しなければ、これから策定する発電比率を上限とするということだろうか。だとしたら、20年間続く初期の冗長な賦課金と回避可能費用を埋め合わせる賦課金はどうせよというのだろうか。2017年で、2030年の7%を既に導入量で7割強達成し、認可未稼働分を含めれば優に超過する発電比率は、今後12年間、一部認可を取消し、新たな設備認可はゼロか。
 太陽光の原発を代替するポテンシャルの伸びは我々の予想を遥かに越える。今は太陽光発電コストは外国メーカーパネルを使えば産業用で10円/kWhを割っている。因みに長期受給見通しでは2030年にやっと14円/kWhだった。さすがに固定買取価格も産業用が既に電気料金を下回り住宅用がほぼ同一水準まで下がった。これからの太陽光電気は送配電線に乗せなければ賦課金は全く無い。電気料金を遥かに下回る安さを生かした価格設定が自由に出来、新増設すればするほど自由化された市場における電気料金を引き下げる。電気自動車に給電すれば、送配電やピーク余剰の問題もなく、エネルギーミックスの太宗を占めることもできる。


 大手電力会社が未稼働の原発の送電線枠を予め設定して再エネ発電事業者の連系を拒否する事態が起こっている。稼働の原発の枠とは長期受給見通し2030年原発比率20〜22%を見越しているのだろうか。この値は、廃炉決定済みの16基の炉を除く41基の内、2030年運転期間40年未満のもの18基と運転期間を40年から60年に延長するもの12基、計30基でやっと達成できるものである。新増設の一歩手前である。電気が余りこそすれ不足の心配は無く7割の国民が原発に反対し一基とて再稼働がままならない。正に今、未達どころかゼロになるかもしれない原発比率を補う心配をしなくてはならない時である。資源エネルギー庁がその頓著すらしないのは将来、CO2削減上の電力不足を持ち出した時、廃炉しないで待ち構えて居さえすれば必要な原発の再稼働が許されると思っているのだろうか。
 水力、地熱、バイオは原発ほどでなくとも国の御膳立てが必要で、設備やパーツの量産効果を狙うFITに丸投げしていては進まない。更にバイオの設備利用率低下による未達を太陽光を中心に担わなければならない。電気自動車の動力需要の純増もある。今、正に設備化或いは稼働されようとする再エネ発電所の芽を摘まないことが、如何に大事なことか。
 資源エネルギー庁がが何でも原発と言うのであっても、或いは送電線空容量不足が電力会社が言う通りと仮定しても、再エネに原発が送電線で締め出される心配は無用だ。何故なら、賦課金の過重に耐えきれず、また原発に反対し環境プレミアムを払っても純粋無雑な再エネを購入したい国民が、電気自動車で再エネ発電所に電気を直接、補給しに行くようになるからである。こうして電気自動車の普及の進展に連れて再エネ発電所の送電線利用量は消滅に向けて漸減していく。再エネの新たな連系に当たっては、制約なく解放し思う存分、伸ばさせておかなければ、福島直後、あれだけ心配した電力不足が遅れて現実のものとなる。
 自動車メーカーは給電スポットを全国津々浦々に作り電気自動車にクリーンなエネルギーを給電したい。新電力は法外な託送料金と供給量確保に苦しんでいる。再エネ発電所は自動車メーカーに充電器を付けて貰い、新電力に買取仲介して貰い、自動車のソーラー充電スタンドを運営すれば良い。
 電気自動車と住宅用太陽光は先行する米国を見てもシナジー効果は抜群である。屋根からの太陽光電気をマイカーに補給するだけでなく、マイカーに充電した電気を家庭に補給することも出来る。更に、ご近所のお宅の電気自動車にも給電してあげられるよう、新電力と自動車ディーラーにお客様との取り次ぎをして貰えば良い。住宅用太陽光はメインテナンスは不要だし移設技術も進化しており、日本全国の住宅の屋根等のスペースはいくらでも開いている。電気自動車は家庭用を始め民生用の電気も送電線に成り代り運ぶことができる。














 
 



2018年1月4日木曜日

宗教団体は原発に反対を。

立憲民主党が原発を今すぐ廃止する野党統一案を提示しました。小泉元首相と吉原さんも同様なものを既に出しています。国民の多数の思いが実現する機運が高まってきたように感じます。小泉さんのような首相経験のある人が言ってくれれば本当に心強いことです。
私の郷里の岡山では「原発は仏教に反する」というスローガンで反対運動している住職達の集まりがあります。原発が世の全ての宗教の宗旨に反することは明らかなのではないでしょうか。政治に宗教が関わることは良しとされませんが、原発の是非は政治問題ではありません。人間の生き方の問題です。宗教団体は反対の運動に時間を割く必要はありません。ただ、人間の生き方を説いてきたように、国民の皆が宗教の宗旨からもやはりそうなんだと後押しされるよう原発反対の表明を広くしてもらいたいと願います。