2014年11月29日土曜日

原発が止められない理由


3.11忘却の兆候だろうか。否、そうではないと思う。避難計画をたてながら原発再稼動に至るかもしれない趨勢や易々と進行する輸出と、それを座視している国民の現状は、原発が内包する陥穽から派生する次の六つの理由があると思う。


一つは原発をどうするか誰も決めないで、行われているからである。

再稼働の同意を求められる立地地域の住民と自治体の範囲が争われても、地域住民に日本の原発をどうするか決めているつもりはない。政府は地域住民の同意を国民の了解の代替にしたいのだろうが、やっていることは「憂いも辛いも食うての上」の人々に目をつけて、国民に向かって再稼働させてよと物乞いさせている態である。乞われる方は負い目もあって、この切実さの違う立地地域住民の「食」に、前述の「飢えては食を択ばず」の「食」を重ね合わせている。政府はこの都会人の負い目にうまくつけ込む。再稼働の手続きについて法律論ごときに終始し国民の基本的人権を投げ出すお人好し社会は、立地地域住民に全てを預け怖いものに蓋をする陥穽に落ちている。原子力規制委員会は作った安全基準に適合の判定をしているだけと自ら言っている。安倍首相は原子力規制委員会の安全審査を通ったものを再稼働すると言っているだけである。一方で輸出を平然と行ないながら、よくこんな卑怯なことが言える。今、原発は政治家が扱う問題でない。宗教家と本当の学者が扱う問題だ。安倍政権は選挙に勝ち国民から付託されたと思うならば間違いである。前政権が全廃方針を一度は決めかけた直後の選挙において、容認が一党だけとなれば賛成票は窮鼠猫を噛むごとく、ここぞとばかり容認党に集まるのに対し、反対票は票になる力さえ萎え、よしんば票になっても算術通りに容認党の第一位を約束する死票でしかない。小選挙区で結集しようとする野党も無い。要は反対票は分散した上に、投票率が格段に違ったのである。端的に言えば、容認党に有って反対党に無かった二択の「原発イシューこそが自民党を政権復帰させた」からである。三回の国政選挙と東京都知事選の全てがそうだった。大事なことは、国民までもが、なんとなく選挙結果に納得して黙ってしまうことがあってはいけない。福島事故後、原発の是非の民意が問われたことは一度も無いのだから。
その政権下2014年4月に決めたエネルギー基本計画で原発を将来のベースロード電源に据えると盛ったことが、何になろうか。パブリックコメント、意見聴取会等の国民的議論を経て野田政権の2030年代に全廃の閣議決定を、官僚を引き手に経済界や米国の横やりによって土壇場で見送らせてのエネルギー基本計画である。経産省前金曜日デモで安倍首相に今ぶつけるコールは「原発ゼロ方針を撤回するな」である。時の政権のその時点のエネルギー長期需給予測以上のものでないというのが国民の感覚である。ベースロード電源とはコストが低廉で昼夜問わず安定的に発電できる電源をいうが、安定性についてはニーズも低下し原発だけでないし、原発の欺瞞的低コストをこの期に及んであげつらっても栓ないことである。結局、エネルギー基本計画には原発をベースロード電源として残さなければならない理由は何一つ書かれていない。事故が起こらないだろう短期に賭ければ低コストで、出力安定化のための火力の調整電源としてのキャパシティーを喰ってまでも原発の出力調整できない欠点を許して、電力自由化後に運転期間延長や更新も含めた既存電力会社による電力の中央管理を残すと言っているに過ぎない。九州電力にヒアリングすると、原発の電気は強力だから抜き差しならないのだそうだ。エネルギー基本計画策定の後、2015年6月までにエネルギーミックス、この間の再エネ調達価格、エネルギー種別コストの小委員会がブロックプログラミングのように行われるが、基本計画の原発ベースロードの方針を小委員会で覆す選択は初めから無い。何故なら、原発以外のエネルギーもそれぞれの事故コストを含めて比較しようという議論が平然となされるような会議場面を見ると、基本計画の原発ベースロードを見直そうという委員は選ばれていないようであるからだ。この小委員会が募集する多くの原発ゼロの国民のコメントはガス抜きとして反古にするつもりか。
輸出してよいと誰か決めただろうか。誰も止めなければ、輸出できる人達が出来ているだけである。東芝や日立が原発を輸出しながら太陽光もやっている一事を見ても、産業界は原発と再エネの二者択一に向き合おうともしていない。結局、誰も原発をどうするか意思決定することなく事が進んでいる。原発には、皆んなを参加させようとする拡散力とでもいう力が働き、怖いから皆んなで、皆んなだから怖さへの本当の対応も拡散、霧散してしまう。これも陥穽である。
原発に真向かうのを根が尽きて棚上げしてしまう国民は多い。日々の仕事に追われて原発の是非の意思表示の機会を与えられないと、長いものに巻かれてしまう人、特に組織人には多い。況や、若者達は自分の生活維持に精一杯で知見のある上の世代を信頼し委ねる傾向がある。あの人が、あの人さえ言わないのだから自分などが言うに及ばないと「沈黙の螺旋」の綾に迷い込んではいけない。是か非かの数より、至る論拠の一つ一つを、未来の子々孫々の幸福を見据え、本当にそうか、打開策は本当にないかと吟味するのだ。国民は、学者や専門家に難解でも説明させ自分で引き受ける覚悟を持たねばならない。彼らを議論の輪の中心に据えてはならない。原発の周辺の官僚や産業人も含めてである。これは電力会社や経済界から資金や集票の上で便宜を受ける利害関係からだけではない。国民が俗にいう頭の良い人に弱い。筆者も以前はそうだった。こういう人々をそれだけで信頼しすぎる弊害が原発ではあまりに大きいので、穏当でないが敢えて言う。以下、嫌いがあるという意味で言う。
多感な青春期に受験勉強に専念でき世間が良しとする進路に安住栄達できたことは、逸脱に魅かれ費やす時間と葛藤や悩みが少なかったことを物語る。その後も逸脱の淵に沈潜することなく生きてきた。力を削ぐ精神の起伏を避けてまでも、何が何でもポジティブなのだ。結果を出し褒められて生きて来た。何かなし遂げることで安心を得ようと、なし遂げる何かを選ぶ懐が無い。葛藤や悩みや負けと苦闘し培われる慈悲心、感性、思考の広さが総体として世間一般より劣る人達だ。やさしいかどうかである。競争の中で戦ってきた彼らはいつのまにか人として持つ優しさをどこかに起き忘れてきたのである。彼らは間違いなく真摯である。しかし発端に慈悲と優しさが欠乏しているから、いくら有り余る能力を発揮しても駄目なのである。自然を前に自らを疑うことの少ない。原発是非が、属す組織における自己実現や評価という価値に簡単に飲み込まれてしまう。経産省官僚の退廃の本質である。彼らには国民より次官の方が「全き人」なのである。人間の哀しみを見つめる力の欠如である。脱原発という、積み重ねからの逸脱を意味する選択肢を含み、全て人間のための人間に対する広い優しさが求められる原発問題に向き合うとき最も排除されなければならない人達である。安倍首相の途中辞任は逸脱どころか、自分のやりたいことと方法を再確認する卑しいものだ。原発の安全が彼ら主導で論じられることは、国民が安全を考えるのに最悪な人達に丸投げし自らは目を背けることと同様である。専門性が必要で、それ自体が危険な分野はたくさんあるが、こと原発の専門性の場合、育成中に育まれた人格、素養が目的に最も適さないということである。専門家の資質が悪いといっているのではない。今の専門家と違う人が登場する時だと言っている。社会が恐怖のあまり彼らに委ね、無意識に責任放棄し、事故は起こらないと高を括る、ここでも「原発の陥穽」に落ちている。

二つは、人間の心の問題が置き去りにされているからである。

原発と共生する時、事故や健康への測りがたい影響への不安や恐怖や苦悩が必ずある。これが原発のドローバックとして取り上げられず、コストやベクレル、避難経路等、数字で表せられるものだけで片付けられる。原発という科学の粋へは科学的に対処しなくてはと言わんばかりに。どちらの「科学」も、お為ごかしであるが。福島の避難者自殺裁判で東電が言った「個体側の脆弱性」の、いかにも科学的文言が如実に示す通り、心の問題は耐えている限り人間個人の弱さ故とされ問題にされないのである。大した心の問題は無いと思っている都会の人達も無意識に負い目の感情が澱のように溜り心が蝕まれていく。我々は良い、だが子孫をもこの心の問題に曝すのか、それとも新安全神話を作れと勧めるのか。原発は「つなぎ」であるから早晩必ずゼロになる。未来の子孫は原発を振り返って2011年以降は無くて良かったと言うのである。使用済み燃料・放射性廃棄物を保管する恐怖を量的に少なくしてやるのがせめてもの報いではないか。人間の幸福追求は、経済成長により衣食住が足りるにつれ、所有も生産もなく今ここに辺際なく広がる山河、空間や心に向く。また未来の同胞に向く。まさしく原発が毀損しようとしている事物へ。道具にすぎない原発を立て、人間が催眠術にでもかけられたように心を放棄し自らを貶めている。
今必要なのは人間の唯我独尊である。

三つは原発を是非する視座が3.11後、急激に時間軸の短いものになっているからである。

視座の高度が気付かぬうちに富士山から丘に変わったぐらい、自分やせいぜい孫が生きている間の安全しか見通されていない。原発を非とする人の一部は、先に是非する機会が又巡って来た時富士山に登ろうと悠長にしている。原発を継続しようとする人々の論拠は一見、勇ましいが実は自死に向かう人のように刹那的で、人間の種の保存本能が退化しているように伺える。放射能による遺伝的障害は第一世代即ち子に現れるのは一割で残り九割は第二世代以降に現れる。
戦時には原発にミサイルや爆弾が中ることもあろうから原発の設置は核拡散に等しく、戦争が想像もできないくらい怖いものになる。テロの標的に簡単になりうることは国民は分かっているが陥穽を遠因として、自らの目を塞いでいるだけである。特に米国との安保を深めながらの原発維持は特に危ない。原発は日本の戦争の囮のようでさえある。国内の原発がミサイル攻撃を受ければ日本は憲法9条を守り専守防衛に徹しても、日本をアジアの足場にしている米国が反撃し日本は集団的自衛権を行使し参戦するだろうからである。戦争状態に入れば、原発全てが停止し供給途絶となることは必至である。その戦争やテロが普通の山に上りさえすれば、自然災害以上の確率を持って見通せる。テロや戦争が起きた直後、また想定外と逃げ口上できるかどうか一度考えてみてもらいたい。
原発はCO2を出さなくても海水温を上げることにより火力発電より遥かに将来の地球温暖化を招く。原子炉で生じたエネルギーの三分の二は電気にならず冷却用海水を暖め海に戻されるからである。
富士山から、使用済み燃料や放射性廃棄物の安全保管に苦悩している未来の子孫の姿も見えるであろう。大地震は元より国家の変遷は何回となく地殻変動さえ起こる間の十万年後までの子孫に地中に埋めたガラス固化体を安全に管理しろと言う権利が我々にあるのか。汚染による土地の喪失の重さは子々孫々の代まで見通して初めて分かる。原発立地地域の人達に預け、学者、専門家に丸投げし、未来の子孫にまで付けをまわし、今の国民は、自分は何を引き受けようとするのか。
国民は、委員会等が出した基準や改善案、対策に目を凝らすあまり引きずられ初心者の自動車運転のように視線を落としてはいけない。事故の反省にたって今後の安全を考えることが既に、原発を継続する上でのことである。いやそうなりがちである。原子力規制委員会の出した安全基準は、この安全基準で、原発をどうするか決める上で用が足りるかという検討を経ていない。これが、田中委員長に「安全基準は作ったが遵守さえすれば安全というわけではない」と言わしめた。安倍首相が安全基準でもって原発をどうするか決めようとするなら、廃炉と使用済み燃料処理の安全、戦争テロの可能性と影響、再稼働と新増設を止めたらどうなるかを検討するもう一つの原子力規制委員会も要るのである。事故が起こって改善しようと策を練る人々は巨大な困難を克服しようとするあまり、頑張れば克服できる彼らが見ている困難しか目に入らないのは当然である。
原発を容認する理由に経済の停滞、電気料金の値上がりが言われるが、必ずしもそうはならない。原発の代わりに太陽光を輸出し、正味コスト16円/kwhの太陽光発電を国策で普及し27円の電気料金を下げることもできる。仮にそうだとしても経済で少々、ひもじい思いをしても原発を止める代償として些細なことだ。見ている先が自分達の世だけか子孫の世までかの、はっきりした違いがある。経済や電気料金がどうであれ、未来の子孫の世までを見る限り、自分達の世にそんな我儘なことは言っておれない。

四つは、安全保障に関する論拠が、国民の原発是非の論議の土俵に公平に乗らないからである。

原発に有利な論拠は土俵下で曖昧に流布され揉まれ傷つくことなく、時の政権の行動の隠然たる拠り所と国民の座視のもとになっている。一方、原発に不利な論拠は口籠るかのように評定の土俵に上がることはない。こうして原発が知らず知らず贔屓されている。
新興国は先進国に倣い原発依存の道を辿る他なく、その原発は日本が輸出して安全と平和利用を担保しなければ、韓国や中国、ロシアが輸出するのでは危険極まりないという論拠は抱え込まないで専門家や政治家に説明させ広く国民の吟味に委ねるべきである。中国は福島事故で中断していた原発新設を日本が事故収束し輸出をしているのを見て再開する。未熟な韓国や中国の原発の事故から飛んでくる放射能に対して輸出している手前、正当に抗議するわけにいかなくなる。
他にも核に関連する問題や米国の意向の影響があるなら公開し、アバウトでない論理をきちんと説明させてから吟味の対象要目に加えねばならない。沖縄基地移転問題で当時、鳩山首相が言った「抑止力」の中身を国民は察して追及しなかったが、同じことを原発でしてはいけない。
戦争やテロで原発が被弾するリスクをもっと声高に言わなくてはいけない。太陽光発電は原発と対極にある。分散型で攻撃対象になりえず、たとえ被弾しても放射能災害はもちろん燃料を使わないので火災等の二次被害が少ない。エネルギー備蓄の観点では、原発同様攻撃の脅威に曝される国家石油備蓄の備蓄日数110日分に対し、余剰売電の住宅用が飽和すれば最終消費量の14%を占める民生用エネルギーの供給は賄え、その備蓄は無限であり、しかも自給の主体は国でなく究極の個人である。太陽光発電の自給の絶妙さは、防災上、エネルギー調達上、備蓄上、外交上等と、安全保障の多岐に渡って決定的に優れている。この自給の絶妙さの価値に気づかないのも前項で述べた視座の短縮から来ることである。

五つは、原発と再生可能エネルギーは二者択一であることと、国自らその普及を行うことが忘れられているからである。


原発を初めて導入した時、再生可能エネルギーが間に合わないからこそ「繋ぎ」で原発に止む無く頼らざるをえなかった。翻って今、国民が再エネ賦課金の負担を受け容れているのは再エネの普及がなって、原発の作る電気は私は使わない、役に立たない原発が止められるという願いがあるからだ。3.11の直後2011年4月から、福島や原発立地地域の人達に報いることができると思って電力会社からの賦課金の請求に応じた。ところが、お構いなくエネルギー基本計画で原発はベースロード電源とされ、接続保留問題で太陽光普及の可能性が見えても太陽光の不安定性の弊のみが言われ原発の代替の話題は一向に出て来ない。国民は賦課金が原発代替に結びつかない裏切られた思いに打ち拉がれている。さらには再エネ賦課金が役に立っての普及ではなかったことに憤りを覚えている。
固定価格買取制度(FIT)は、普及させたい再エネの発電コストが高くても設置しようと思うほど、再エネが作った電気を高い価格で買い取るものである。漸次量産効果で下がる再エネの設備費と合わせ買取価格も下げることを予定している。再エネコストが競争的コストを超える部分と若干の利益が買取マークアップである。これを誰が負担するかというと再エネを普及させたい者である。国である。国民は原発が止められるならばと思い、買取マークアップつまり賦課金の払いに甘んじているだけである。
税金か賦課金の違いだけでない、正しく国が負担することとしなければならない理由がある。安いのに、或いは安い判明に時間を要すことからコストをはるかに超える誘引費用が必要なら、国が自らできる再エネについて国営として誘引費用をかけないでやれば済むからである。そうして国民が誘引費用ばかりの間違ったコストを負担する危険がなくなり、再エネの本当のコストによっては電気料金の値下げさえなるからである。誘引費用が競争を促さない逆効果の心配もない。接続保留問題の7,178kwの殆どの2013年度買取価格適用産業用太陽光のコストが16円/kwhに対して耐用年数の読み違えで36円の固定買取価格を付けた20円の差異は、電気料金26円を超える8円が超過コストで2円が利益と想定したのだろうが、実は18円の非原価と2円の利益、即ち20円丸々誘引のための誘引費用だったということである。
太陽光発電設備はコモディティーなので初期投資の調達価格が何年使えるかで円/kwhコストは殆ど決まる。平成27年度の買取価格を決める調達価格委員会の際、資源エネ庁に電話質問し驚いた。平成24年の前回会議の20年を変えていないのである。後述するが、正しくは35年である。これを個人需要家が負担する。原価でないものは言わずもがな、これ以上の賦課金負担は住宅用以外ではもう国民には無理である。住宅用以外の太陽光や、風力、地熱他の再エネは国が誘引費用の無い正味コストで自ら行うべきである。適した国有遊休地も多いし、地熱は国立公園の利用が肝腎になる。太陽光はリードタイムが短いこと以上に安いから普及しているのだから再エネの主流となって当然である。原発を代替するまで再エネを普及させるのに、FITの配分にこだわるのは本末転倒で、少なくとも国民負担で風力、地熱への重点移行は無理である。
個人の屋根がスペースとなる住宅用太陽光は国がやるわけにいかないので総括原価主義のもとFITで普及するのである。賦課金を払うからには誘引に乗って自ら設置し買取価格を享受しようと普及し、売電を増やそうと自家消費を減らす省エネ効果もあり、賦課金は売電により負担した個人需要家に戻ってくる。例え太陽光コストの見誤りが有って高い買取価格を付いても自分が享受するのだから、忌憚なく払ってもらえる。また隣人が設置し買取価格を享受すれば自分のことと思える。
単に普及が成ればよいという考え方から住宅用以外にも、FITで誘引費用の負担を総括原価方式で個人需要家に負担させるのは間違いである。総括原価方式の根幹は電気需要家が使用電力量に応じて原価を負担することだ。電力会社が再エネを買取るということは、負の電力会社の売電と負の需要家の使用に相当する。負の使用に応じ、使用に応じ払う賦課金の返却があってしかるべきだ。それが買取価格のマークアップである。電気の運転消費が無く賦課金を払っていない、発電量が膨大な太陽光発電所の企業や外国資本には返却のしようも必要もない。しかも正しく買取マークアップが超過費用と若干の利益に合致しないその差異の金額たるや発電量が乗じられ膨大な金額になる。国は住宅用以外のFITによる普及を、肝心の負担者である個人需要家の了解も取らないことに何の疑問も持っていないが、賦課金に転化される頃に国民の不満が爆発し不払いが増えるであろう。風力、地熱、バイオ等はコモディティーでないことも量産効果を仕組むFITにそぐわない。
賦課金は買取価格と買取なかりせば電力会社が使ったであろう回避可能の電源のコストとの差額で算定されている。当然電気代より低いので算定幅は拡大するが、こんな阿漕なことが許されるのは、総括原価方式の範囲から賦課金の流出の無い場合のみである。
原発代替に結びつかない上に、住宅用太陽光を除いて、コストでもなく何の意味も無く企業や外国資本に移転するだけの多額の賦課金を国民が20年間払い続ける。おまけに賦課金が必要なほど太陽光発電がコストが掛かってしょうがないエネルギーと言われる始末である。そう言っていいのは賦課金が超過コストに一致する場合だけである。国民と再エネは踏んだり蹴ったりではないか。今からでも遅くない。住宅用太陽光以外の再エネはFITを収束させ後は国でやり、FITを住宅用太陽光に限定し飽和させ賦課金を少しでも多く国民に返還する。2030年再エネ目標値は今後国で行う分で達成し、住宅用太陽光で原発を代替する。願いが通じたのか奇しくも、住宅用太陽光は飽和すれば2030年の原発の発電量に匹敵する。
(注) 2012年5月総合資源エネルギー調査会基本問題委員会2030年の電源構成で
    総発電量1兆kwhの内、原発15%で1,500kwh
    住宅用太陽光の飽和で、1,545kwhの発電量となる。
    平均導入量は一戸当たり4kw
    全世帯数5,000万の内、戸建て3,000万戸、集合2,000万戸
    4kw x 3,000万戸 x 365 x 24時間 x 12.6 (稼働率)= 1,325kwh
    集合住宅の陸屋根の1戸当たり建坪は平均4階建てで戸建ての1/4。   
    4kw x 1/4 x ,000万戸 x 365 x 24時間 x 12.6% =220kwh
屋根で自給し原発の代替が叶えば国民一人一人が「私は原発の作る電気を使わない」と福島や原発立地地域の人達に報いることができる。分散型で自給型の住宅用太陽光は送電網の負担が少ない。産業用は国がやれば、全体統制を要す送電網の拡充と整合的に場所を選ぶ事ができる。海外メーカーのモジュールが殆どだった産業用に代わり国が国内メーカーのモジュールを指定し量産効果を確実にし国内メーカーを傷めることもない。
原発も太陽光も夜と昼の違いだが共に過剰発電の欠点がある。原発は揚水発電の蓄電池を必要とし、太陽光はそれに加え火力による調整という二つの方法がある。太陽光の日照の程度で変動する弊が言われるが原発の発電量も地震で不安定であり、太陽光はピークカットのメリットが補って余りある。結果、太陽光の調整電源の火力の容量を喰う原発と太陽光は、原発に甘くしてトレードオフの関係にある。太陽光が少なくとも電気料金以下のコストでアベーラブルなら、ベースロードであることに何の必然性もない原発を止める選択が自然である。この時、火力は発電量でなく調整の容量を増すだけなのでのCO2には無関係である。怖さが放射能の比ではないCO2の対策を原発でやる本末転倒は赤子でも気付く。
原発が怖いからその普及に拡散力が働き例えば電力会社に運営を任せたように、再生可能エネルギーの普及にも民間に丸投げする拡散力が働いて住宅用太陽光を除いて、個人需要家と国内メーカーを毀損する。後者の拡散力は怖いからでなく、二者択一の相手の手前、単に国が出たくないだけである。国は自ら腰を据えた取り組みをしていないから、再エネ普及のブレーキになる、目的に逆行することばかりをしている。何から何までFITに依るのは破綻が目に見えている。正味コストで出来る国の自ら泥を被る実行に頼るしかない。国でも地方自治体でもよい。による負担と普及は住宅用一点に専念する。
FITは、国の方針で普及させるのだが国自らは出来ない、国民しかできない範囲を普及させるために使われるものである。国が出来ない範囲とは、国民個人所有の設置できる空いたスペースに付ける場合である。つまり持ち家の屋根、マンションの陸屋根、個人所有の建物屋根や遊休地などである。普及の眼目のコスト面でスペース費ゼロに着眼し、これらを掘り起こすことが主眼で、購入或いは他に転用を止めてまでするスペースへの投資は含まれない。適するスペースを多く保有する国や地方自治体がFITを使わず誘引費用の無い正味コストで投資すれば済むからである。個人がする投資を対象とするからこそ、FITを個人需要家が誘引費用を負担する総括原価方式と合わせて使用するのである。ほとんど電力使用が無く賦課金負担の無い企業の行う大規模発電所や他の再エネは総括原価方式の枠で行っているFITに参入する資格は無い。買取価格の不正確で誘引費用にコスト補填でないものが大規模発電量が相乗され余りにも多く入り込む危険があり、現にこの危険が産業用太陽光の接続保留問題の原因となったが、そもそもFITの買取りに含めてはならないのである。
国民個人を対象にし、スペース費がゼロになり誘引費用が安くなる上、その投資を誘引する費用を国民が喜んで負担して、負担する限りは国民が報われる、普及という結果で報われるのでなく、国民自身が誘引され即ち費用の使い先、享受する者になって投資して報われるというFIT本来の機能が最大限発揮されて普及がなる。次に誘引費用の負担と享受の対応が公平に可能な限り一対一に近づくよう、空いたスペースを持つ国民の中でも、スペースの小さい国民が優先して認可されなければならない。この意味で住宅用太陽光を第一に、容量制限が50kw未満の低圧の個人の行うプチソーラーを第二に、これらの飽和をFITの終了時点に視野に入れた適用でなくてはならない。コモディティーでない風力や地熱までFITの量産効果が働くのだろうか。それよりも国なりが技術知識を集め一元的に注力した方が良い。


最後は、日本人が、原発は世界と相互に作用しあうイシューであることと、その中で自分達が果たすべき役割についての意識が希薄だからである。

日本国民が国内において是としていないものを輸出してはいけない。この自明な簡単な命題の理由をくどくは述べない。ドイツやスイスは福島を見て、原発全廃を決断した。原発を輸出できる日本は世界と一緒に原発をやめることが非常に重要になる。倫理上も実行上も自分は止めて輸出だけできないのだから、有ってはならないことだが、輸出の先行は国内の再稼働のなし崩し的容認につながる。そしてさらに重大なことは、最悪、エネルギー需給上充足さえできればミニマムのはずの原発再稼働が、輸出を伴う場合は、日本が世界の原発を担う枢要国の一つとなるために国内原発を技術向上、人材養成のために維持する終点の遠のく再稼働になる。エネルギー基本計画で原発が重要なベースロード電源とされているのは、この輸出との連動性が一つの理由である。
この違いの意味は土俵に上がらず、政府は徹底究明するより臭い物に蓋か、内には神妙、外には超克の二面を冠り分け国民への裏切りを犯そうとしている。況や日本人は、一国だけの問題で済まない原発について世界を導く役割と責任がある。日本の輸出は、さすが日本は世界に輸出が出来るまでに福島を克服した、原発にあれほど苦しんだ日本人が勧めるのだから大丈夫だと思わせる想像以上に強いシグナルを与える。世界各国が導入の方向に向かってとめどなく進む。そこに向かわないためには、今誰かが、二つに分岐する飛び石の踏分石の上で違う方を指し示すしかない。誰か。それは輸出という真逆のことをしている当の日本人だ。広島、長崎を経て非核、非戦を掲げ今福島と対峙している、世界の国民から敬慕されている日本人しかいない。「原発は人間には無理だ、もうよそう」と音頭を日本国民が今とれば世界の国民は尊重賛同する。相手国の国民に訴えるのだ。世界の国民は福島を我が事のように見ていることを忘れてはならない。これは米国にはできない日本にしか。
日本の為政者は我が国の今の苦悩、葛藤に世界の国民より無頓着なのか。為政者の深層心理に、怖い原発問題を輸出によって新興国を巻き込み皆で渡れば怖くないと自分の不安を掻き消す動機があるのか。ならば正に補償作用である。陥穽の輸出は許されざることである。国内でコントロールも出来ていない物をそのことを隠して輸出することがどんなに罪深いことか、詐欺罪と製造物責任法に問われることである。
原発を導入しようとする国や電力インフラを必要とする国に、短期の採算度外視し商取引を離れ、新エネルギーを柱とした電力インフラ整備の企画提案援助により原発無くして済むように導くのだ。原発容認派が心配している経済は、原発産業がより将来性のある再生可能エネルギー産業に置き換わるし、この点がうまく進んでいないのは後述する固定価格買取制度を生かしきれていないだけであり、長い目で見れば新興国の新エネルギーを基盤としたキャッチアップは必ず援助国にリターンを享受させる。




2014年11月28日金曜日

原発の危険は内に陥穽を孕む危険である。


事故時の避難計画をたてたりまでして、原発は稼動させるものでは、かつてはなかった。導入当初、隕石の衝突の確率を調べた如く、事故が起きる可能性があるだけで受容れなかった。3.11以降、原発を忌避するどころか逆に大事故を想定して、即ち起こりうると認めてまでそれと共生しようしようとするのは何故だろうか。輸出がいとも簡単に決まっていくのは何故だろうか。
再生可能エネルギーが格段に進歩し代替の目途が立つし、企業・家庭の自給と節電が予想以上だったことが大きく、既に原発無くともピーク時でさえ電気は十分足りているのに。今一番、忘れてはいけないことは、こうはならないだろうからこそ原発をやめるわけにはいかないと言ってきた原発を容認していた人々が、こうなっている今なお、やめられないと思うのか自分に問うてみることである。今、一昨年9月大飯原発が止まってから原発ゼロとなって2年経とうとする今、原発をやめる理由に何の不足があるというのか。


原発の本当の危険性は、そのもの自体の危険性だけでなく、原発が内包している、どうしようもない陥穽がそれをさらに増幅したものである。この陥穽は、原発と敢えて共生しようとする時「事故は起こってはならない」が「事故は起こらない」に否応なく、不覚にも変化するものである。
まず、原発の事故が一旦起これば取り返しの付かないものであること、そして交通事故や飛行機墜落事故のようにアルゴリズムが明白でなく魑魅魍魎と言っていいほど測りがたいものであること。この二つのために、原発を隣り合わせに利用する時、恐怖を伴う憶測が入り憶測はその危険を甘く見るように働く。何故甘く見るように働くかというと、次に述べるように危険への対応が実でなく虚で行われるからである。心理学でいう補償作用、即ち現実の不如意を夢(=無意識)の中で補うことで均衡を保つ作用が、社会という集団においても一個人のように不可抗的に現れる。一人一人の無意識の作為、不作為だけでなく、自他に向け意思された作為、不作為も人間のどうしようもない性(さが)がなさせ個々の責めに帰させえ得ないとき、その集積と醸成は社会を一人と見ると無意識のものである。人間の手に負えないと紙一重の危険な原発と隣あわせに電力という恩恵を受けると事故は起こってはならないという葛藤や安全であれという祈りが知らず知らず、いつの間にか安全という事実に摩り替わる力が働く。原発が難解で超危険なため不如意の度が過ぎて、このように均衡がとられないと原発と社会はやっていけないのである。人間が原発を媚びるように立てて、生態系を傷つけることに緩慢になり自らを貶めるようにさえなる。そして起こってはならない事故は起こらないことになる。起こらない事故に普く備えられることはない。こうして危険と備えが、原発をめぐるあらゆる場面で、互いに背きあい相応どころか、かけ離れていく。原発の過酷事故は起こってはならないし、事故想定即ち備えの無い実用化技術もあってはならない。原発は自己矛盾の技術を晦ます他なく、いつかは本性を曝す。

福島事故で、吉田所長が津波について「起こるかどうかわからないことに対策をとることはできなかった」と言ったが、実は巨大津波は想定されていたが電源設備の改善を促さなかった。仮に巨大津波が想定されてなかったとしよう。原子炉の核燃料空焚き状態に帰結する冷却材(水)喪失、その水を送る電源喪失は当然想定される事故因果であり、電源が津波の高さの人間の想定の精度に従属するなら、核燃料空焚きもそれに従属する。核燃料空焚き状態の発生が人間の想定の精度に依存しなければならないなら、原発はそもそも実用技術として欠陥品ではないか。それを「想定外」と言って希有な切り札のように弁解するのは、人間の想定は大したものだと自然を前にして思い上がりである。
徹底究明より鎮静化の方が大事なのか中枢設備の地震破損説の未解決。危険な原発を安全と言わなければならなかったからには知ったかぶりやタブーも必要だったのだろう、責任者や専門家の、福島原発を四十年間運転してきて未知のものを扱うような対応。外国に与えられた技術でしかも超危険となれば自家薬籠中にする研鑽と努力を必死で重ねて来たものと思ったら、なんのことはない、専門家や責任者の事故対応と放射能の影響に関する議論百出。過酷事故と直結するだけに事故対応の試行訓練の機会と的確さを欠いたのだろう、作業の習熟の欠如と脆弱な設備。
SPEEDIの放射能拡散予測の隠匿が示唆することは、放射能飛散と避難に備えていたとは言え、いざ現実になると人間にはこのようなことは耐え難く受け容れ不能だということである。SPEEDIは、原発導入をお膳立てする虚仮の道具以上のものでなく、その目的通りの使われ方は人間には耐えられないことだということを期らずも証明したに過ぎない。誰も責められない。規制委員会の安全基準が避難計画を含まない本当の理由は、人間に受け容れ不能の放射能飛散と避難を基準に織り込みようがないからである。安全のため周知徹底せねば国民の命に係わることが、ならぬものはならぬと他の問題に摩り替わり知らされないのだ。人間が許容可能かどうかの検証を素通りして、単にお膳立てで赤子を騙すようなところが、原発には随所に見られ、しかも騙していることの自覚なさが陥穽に嵌ったとしか言いようがない。はっきり耐えられないと言わない赤子になりきった国民も陥穽の仕業だ。憲法で基本的人権が守られているのに、人間自尊を言い張るに少しも憚る必要はないのに。
使用済み燃料や廃棄物の処理を度外視した対環境と発電コストの優越。核燃料サイクル技術の破綻を認めない、真の困難からの逃避。そもそも確信犯的な「臭いものに蓋」がはぐらかされ無意識に行われる陥穽。
原発再稼働の思惑か、どっちつかずの再生エネルギー普及策の及び腰と鎮具破具。コストと無縁の促進賦課金を再生可能エネルギーのコスト高のせいにする言辞の一人歩き。太陽光発電コストは後述するが電気代の7割以下である。
民意を汲んだように民間に任せる原発の運営。安全を経済営利より軽んじる、あってはならない様々な事態を招来してきた。事故処理に関しては、政府は作業員の管理を今だに営利原則による電力会社に任せっきりである。作業員はたとえ給料目当てであっても、間違いなく国民の恩人であるのに。事故後、マイケル・サンデル教授が日本で開催されたの白熱教室で、犠牲的作業をする人を英雄のように敬意を持って、では被曝の危険を顧みず誰がその作業を担うべきかを真剣に討論していたのをNHKで見た。それが、多重下請けの日給1万5千円で全国から集めてきた殆ど素人の労働者を古い民家の相部屋に寝泊まりさせ使っている。労働条件の問題を労基署に持ち込んだ作業員は末端会社に解雇される。これが、営利民間の東電が多重下請けを放置している理由である。その東電を放置しているのは政府である。政府は東電の存続を約束して、事故処理に民間の営利原則が及ぶに任せられるほど、軽く出来ていると思わせられる方が、原発は大丈夫と言うには都合がいいのである。中国が脱線した新幹線を直ぐ埋めて証拠隠滅したことに日本は呆れたが、マイケル・サンデル教授が作業員の待遇を見れば同じ意味で呆れるだろう。民間営利によるなら総括原価方式も放棄しろと言いたい。
飛散した放射性物質を東京電力に無主物と言わしめたのはなんであろうか。電力会社には安心で余所事な、原発事故の賠償コスト及び再エネ促進費用を電気料金に付け替える総括原価方式。今潰れていないことが偽民営だと証明している。
人間の業とも言うべき原子力村の形成。
原発の是非を国政選挙のマニフェストの一要目で片付けている政党と、選挙の結果でなんとなく決めたつもりになる、否させられる国民。原発反対を独り占めし、小選挙区になすすべなく結束しようともしない野党が居る。
自然の摂理がいかに厳しくとも目を背けないだけの耐性、を退化させる悲惨映像を流そうとしない姿勢。悲惨な実像に目を背けて原発を直視できるか。残酷すぎると目を背ける者は是非云々を言わなければいい。1999年東海村JCO臨界事故の奇妙さ悲惨さが福島事故との関連で振り返られ語られることが無いではないか。同じ奇妙さ悲惨さが福島事故の至る所に伺える。津波で流されている人々の様子を見れば、こんなことも起こるのだから自分の死後に役立ててくれればそれでいいと諦めている。残った者はその死から堤防云々の前に原発は危ないと汲み取ることが供養である。原発は多数決でなく、それなりの人々が決断しなければならない理由がここにもある。
上の吉田所長の言辞で始めた事象のことごとくに怒りもせずただ看過する国民の、諸外国から褒められた震災時の行儀の良さにも似た慎ましさ。
これらの全てが原発と共生する社会の補償作用の現れであり、原発に潜む陥穽がなせる体である。

福島事故があって今後、大事故は明確に起こると覚悟して対峙するとしても、この陥穽は一旦身を潜めても、いずれ頭をもたげる。そして原発による電気の生産は、あるだけで危険で減らすことの出来ない使用済み燃料と廃棄物の負の生産を必ず伴う。どうしようもない陥穽を孕み二重に危険な原発は受容れてはならないのである。
原発を1960年代に将来のエネルギーと認めて受容れたのではない。化石燃料でない外国に依存しないエネルギーがどうしても欲しかった時「つなぎ」、つまり代わるエネルギーが出来るまでの過渡的なものとして已むなく国民は一時許した。代わるエネルギーは当初から太陽光や風力、地熱だった。「つなぎ」の初まりだけでなく終わりも再生可能エネルギーと二者択一なのである。はっきり言えることは、仮に始まりの時、太陽光が今の技術水準であれば、原発は受け容れられなかっただろう、それほど已む無くだった。
外交・国際政治問題サイト「百花斉放」の西村六善氏の「原発は最終解決でなく、つなぎにすぎない」という論文と筆者の拙稿「原発は元々つなぎだったはず」をお読みいただきたい。「つなぎ」とされた最大の理由は核のゴミの発生量を抑えることである。核燃料サイクルはゴミの処理ができると言うための材料に過ぎなく、世界の常識では当初から夢物語であった。原発を始めたことは失敗ではないのだから、虚しく継続することで後悔の痛みを宥めようとしてはいけない。「飢えては食を択ばず」で始まった「つなぎ」の終点の今、心置きなく択んでよいのである。


2014年11月1日土曜日

太陽光発電システムの性能と価格


A.しくみ
  1. シリコン :シリコン結晶
  2. セル   :太陽の光エネルギーを電気に変換する約10cm四方の太陽電池   (基本単位)、モジュールの表面が碁盤の目のように格子状になっているが、   碁盤の目の一つ
    1つのシリコン結晶がセルになる単結晶
    多くのシリコン結晶がセルになる多結晶
        どちらも固体のシリコンを溶かし冷やし固めて製造
        多結晶は製造過程で出た不要シリコンを再利用して簡略的に製造
        セル表面に切れ目多い。
     単結晶
     多結晶

大量生産可能、低コスト
変換効率高い
シリコン原子結合が部分的不安定変換効率高くない
シリコン純度上げれば耐用年数増
耐用年数は若干単結晶に勝る。
3.モジュール:セルを直列で接続した大体1m四方のパネル (製造単位)
4.アレイ  :モジュールを組合せた1セット (設置単位)
5. システム :発電単位

多結晶モジュールは単結晶に比べ、変換効率が悪く即ち単位面積あたり発電量が劣るが、中国等の安い労働力と製造方法で大量生産が可能なのでコスト低減効果はその欠点を補って余りある。その結果、単位面積で1w発電する価格が6割方になり圧倒的に有利である。
住宅用は価格の高い単結晶、産業用は安い多結晶という構図がある。これは、住宅用としては屋根に乗せることから、軽いもので狭いところにできるだけ出力を得たいということで変換効率が高く小さく軽い単結晶が選ばれる。住宅用は補助金が付いたので高価な単結晶でも耐えられた。購入先が将来も存続し保証やメンティナンスがしっかり行われるという観点で抵抗の無い単結晶中心の国内メーカーを選ぶ、またモジュールとパワコンの一社生産が可能な国内メーカーのものを選ぶということがある。
多結晶メーカーの場合、製造設備はどこも殆ど同じで、モジュール検査(表面の傷や亀裂)がどれだけ厳密かが性能差に現れる。単結晶といえども海外生産が中心で、セルからモジュールまで通して純粋の国産は昭和シェルの化合物系CISモジュールのソーラーフロンティアーぐらいである。化合物系CISモジュールはシリコン以外の素材の銅、インジウム、セレンを使用しており、耐用年数が最大で製造使用エネルギーが少ないので価格安く、気温や影の影響を受けにくいが、変換効率では結晶系に劣る。パナソニックのHITは単結晶シリコンとアモルファスシリコンを併用することで電荷の消滅を低減したハイブリッド型であり変換効率高く耐用年数長く熱の影響に強い。他結晶系の1.1倍ぐらい発電する。京セラは多結晶にこだわる。東芝250wとシャープ245wは共に米国サンパワー製の単結晶のパネルで同じ製品である。電極を、太陽光を遮る表面から裏面に設計した「バックコンタクト方式」により性能でパナソニックのHITの240wに伍す(HITと共にN型太陽電池セル使用、他結晶系はP型)。カナディアンソーラー、トリナは海外メーカーでありながら単結晶も有る。中国、韓国生産で価格を抑える。
単結晶と多結晶の区分よりも国内と海外メーカーの区分で二重価格構造があるようである。


B.モジュール(パネル)の性能比較

太陽光発電システムは、モジュールのアレイと発電された電気をまとめる接続箱と直流電流を家庭で使える交流電流に変換するコンディショナーとメーターからなる。モジュールの価格の違いがシステムの価額の違いの殆どである。販売業者に見積もりを出させた場合、複数メーカーのモジュールを代えて数ケース提出することが多い。モジュールの機能は、面に降り注ぐ太陽光を取り込み電気に換えることから発電量は面積に比例するから、その性能はより少ない面積で多く発電するものが良いということである。
メーカーや業者提示の予測発電量(シミュレーション)は恣意が入りうるので、この1㎡当たりの比較は信頼性に劣るので、示されている発電性能に関するデータから比較しうる発電数値を次に述べるように工夫する。
 
公称最大出力は、JIS標準試験条件、即ちスペクトルがエアマス(AM)1.5(*2)、モジュール温度25度C、放射照度1000/㎡において算出されたモジュールの出力。
この条件は、ほぼ1月の晴天時の昼の発電条件に近いのだろうが、実際、周囲温度、設置された方位や角度からJIS条件の状態になることはないので、まず此の点で公称最大出力(kw)と最大発電量(kwh)は乖離する。モジュール単独としてはこのJIS条件と実際の違いに起因すること及び後述する三つのロスの内の温度ロス(温度補正)により乖離し、更にシステム全体としては残りのコンディショナーロスと回線その他ロスの二つのロスにより、最大発電量(kwh)は公称最大出力(kw)の1時間を下回る。例として弊宅のパナソニックの公称最大出力230wモジュール12枚で2.76kwのシステムでは1時間当たり発電量(kwh)の瞬間最大値は2.5kwh(90%)である。各社の製品説明にはシステム実際発電量は最大でも公称最大出力の70%~80%になるとある。
モジュール製品間の性能比較を、パネル1㎡あたりの「公称」のシステム発電量で比較する。公称最大出力を出発点として、性能を決める二つの要素である変換効率とロス率を加味して求める。即ちJIS条件と実際設置状況での環境の違いは製品間比較には関連しないし、捕らえようも無いこともあり無考慮とし、敢えて「公称」のシステム発電量という。
耐用年数、即ち耐久性はここでの性能には含めない。

モジュール製品に表示されている公称最大出力は、その製品固有の面積でのものである。中には切り捨てて10w刻みあるいは5w刻みで表示している場合もあるがこの余剰は看過する。面への照度(w)を電気(w)に何%変えるかという指標が変換効率(*1)なので、JIS条件1㎡当たり1,000wの放射照度の時の出力である表示の公称最大出力を1㎡当たりに換算するには、(1,000w 変換効率(%))となる。
(*1)変換効率:
    端的にいえば、太陽光エネルギーの何%を電力に換えられるかを示す指標。
    1㎡あたり1000Wの日射を受けた時何W発電するか測定しその割合。
    この場合、発電電力は公称最大出力のJIS基準でいう。つまり、条件として照度以
    外にスペクトルはエアマス(AM)1.5(*2)、モジュール温度25度Cが加わ
    る。従って、変換効率=モジュール公称最大出力÷(モジュール面積X1000w/㎡)という
    関係。つまり、公称最大出力はモジュール製品寸法の面積での発電電力だが、こ
    れを、寸法を同じ面積1㎡に切り揃えたときの発電量の1000Wに対する割合が変
    換効率になる。逆にいえば、変換効率%に1000を乗じ単位をWに置き換えたもの
    が1㎡寸法当たりの公称最大出力となる。
(*2)エアマスとは太陽光が地上に入射するまでに通過する大気の量に関する尺で、1.0
    は光の入射角が90度(真上から照射)の時の大気の通過量でAM1.5はその1.5
    倍、入射角としては41.8度。この通過量が各波長の含み具合を左右し発電量に
    影響する。

*ロス:太陽電池損失には次の三つがある。
  1. 素子温度損失 (温度補正係数)(%)
    表面温度が高くなり過ぎると発電効率が落ちるというモジュールの特性。
  温度損失というよりも、正しくは補正係数である。公称最大出力のJIS標準試験
  条件のモジュール温度25度Cからの乖離を補正する係数だからである。気温ではなく
  モジュール温度25度Cであり、晴天時照射を受ける結果パネル表面が熱を持つのは当然
  で、JIS条件は特に高いものではなく、冬場でも補正するのにロス(マイナス)の
  係数となる。

VBHN240SJ21
パナソニック
SPR-250NE-WHT-J
東芝
LPV-200-BLK-J
東芝
NB245AB
シャープ
PV-MA2200K 
三菱

HSL60P6-PB-1-250
ハンファQセルズ
TSH-265DC05A
トリナソーラー
月のパターン
A
B
B
A
A
A
A
寒い季節
5.8
2.4
10.0
8
10
10
10
中ぐらいの季節
8.7
6.1
14.3
12
15
15
15
暑い季節
11.6
9.7
18.5
16
20
20
20
季節別発電量
見合平均
9
15
13
16
16
16
                    
パナソニックの多結晶のモジュールは10,15,20%.。シャープ245w及び東芝250wはサンパワーの技術を導入、東芝200wは単結晶であるがOEM
季節別ロスについて季節別発電量重み付けして平均

パターンA
パターンB


発電量割合
寒い季節
123
27
122
中ぐらいの季節
45
1011
34
35
911
暑い季節
69
39
68

2.パワーコンディショナー損失: 5%

3.回線その他ロス: 5%
コンディショナー損失と回線その他ロスの製品別の差は大小1%ぐらいの幅があり、モジュールとコンディショナーの組合せは選択できることもあり、この二つのロスの差については無視する。
太陽電池損失は1,2,3合計となる
 パナソニックの例)(1-0.09) x (1-0.05) x (1-0.05) =0.82   18%


従って、まとめるとモジュールの発電性能は
  1. 公称最大出力を同じ面積(1)に揃える。
  2. 公証最大出力からロス分を控除する。
の二つの手順で製品間の同列比較ができる。
変換効率(%)1000 X(1-ロス率)] 算出したワット数を比較すればよい。

   公称最大出力
     ↓   外形寸法の補正
   1㎡あたり公称最大出力( = 変換効率(%)x 1000 
     ↓   太陽電池損失を控除
          素子温度損失、パワーコンディショナー損失、回線その他ロス
   1㎡あたりロス補正後公称最大出力(公称のシステム発電量)

抑制問題
今話題になっている電力会社が計画的に行う太陽光買取抑制は別に述べる。ここでは、高い太陽光の高い発電中に常時起こる可能性の有る出力抑制に関するものである。
電気機器の安全のため法律上供給電圧は101-6v95107v)で管理される。売電は逆潮流させて送り返すため供給電圧を少し上回る電圧にコンディショナーで調整される。余剰電力はまず数軒で1グループの近隣の住宅で使われ余った分が電線に流れていく。近隣の家庭の電気器具の安全のため、通常、売電電圧にも同じ最大107vという上限がコンディショナーの整定値とされる。近隣の需要が減ると電力会社の供給電圧が自然に上がり、その時、電力会社が高い範囲で電圧を管理していると107vに接近することが有る。制定値107vの売電電圧が電力会社の供給電圧を上回ることができなくなり、逆潮流できなくなり、コンディショナーは自ら発電を抑制するしくみとなっている。電力会社によって太陽光発電電力の制限電圧をどこで測定したものかコンディショナーの出口か引込み柱か幅がある。東京電力管内はコンディショナーの出口で107vでなく109vとしており抑制は少ない。中国電力は107vを譲らないので抑制の発生が多くなる。中国電力は原発の比率が一番低く、再エネ特措法の買取義務の当事者意識に低いことが原因と思われる。もし、抑制が頻繁に起こりせっかく発電した電気を無駄に捨てるようなことが多ければ、筆者に伝えてくれれば解決するよう力添えしたい。

太陽光発電の稼働率(=設備利用率)
 1kw当たり年間発電量:1,100kwh
   1,100kwh / (1kw x 365days x 24h)=12.6%

C.モジュールの価格比較
 A.の性能で得られたw数1wあたり、価格を求める。
    モジュール1㎡あたり価格 ÷ Aのw数

  1㎡あたりロス補正後公称最大出力(公称のシステム発電量)
    ↓    1㎡あたり価格を割る
  ロス補正後公称最大出力1wあたり価格(公称のシステム発電量1当たり価格)


性能比較

モジュール
公称最大出力
w
メーカー
シリコン
/多結晶
外形寸法
cm
1㎡当たり公称最大出力(w)
最大モジュール変換効率(%)
ロス(%)
1㎡当たりロス補正後公称最大出力(W)
1㎡当たりモジュール価格千円
 )内:モジュール価格

(A)


(B)

(A)/(B)
(C)=
(A)/(B)/1000
(D)
(E)=(C)x
1,000x
(1-(D))
(F)
VBHN240SJ21
240
パナソニック

1,580x812
187
18.7

18
153
32.7
(42.0)
SPR-250NE-WHT-J
250
東芝
1,559x798
201
20.1
16
169
49.8
(62.0)
PV-200V-BLK-J
200
東芝
1,318x983
154
15.4
23
119
27.8
(36.0)
NB245AB
245
シャープ

1,559x798
197
19.7
22
154
34.6
(43.0)
HSL60P6-PB-1-250
250
ハンファQセルズ
1,636x988
155
15.5
24
118
17.4
(28.2)
TSH-265DC05A
265
トリナソーラー
1,650x 992
162
16.2
24
123
16.3
(26.6)
()モジュール価格は、20138月から20141月までに複数の業者から得た見積もりから引用、推定。円安、工事人工代増などがあり2014年12月現在、若干の下がりに留まっている。
性能で東芝250wが一番だが、国内メーカーではパナソニック240wが価格で逆転する。シャープ245wはパナソニックに近い。
海外メーカーのものの安さが鮮明。国内メーカーの7割方である。

D.年間発電量とシステム全体の回収期間

太陽光発電システムの「年間発電量」は次式である。
  年間発電量=公称最大出力kwh x(1-ロス率)x 平均傾斜日射量(kwh/㎡・日) x365日
平均傾斜日射量(kwh/㎡・日)とは、1日あたり1平米に何kw太陽が放射するかの年平均 4kwh//
   1日24時間のうち、せいぜい10時間の強弱のある日射を1000/㎡の強度に
   集約すると10時間が4時間に短縮されると理解するとよい。

見積もり比較表中1kwあたり年間発電量は業者のシミュレーションに基づく。
業者が提示してくる発電シミュレーションは上記A.の製品ごとのロスがベースとなり正確に計算されているかをチェックする必要がある。
パナソニックVBHN240SJ21の例)
年間発電量=公称最大出力(kwh)  平均傾斜日射量(kwh/㎡・日)x(1-ロス率)
      x365日
1kwあたり年間発電量:  960w( 240w x 4 )x (1,000/960) x  4.0 (kwh/㎡・日)x (1-0.09) x (1-0.05) x (1-0.05)x 365日=1,199kwh
住宅用6kwの見積もり
モジュール
公称最大出力
w
メーカー
シリコン
/多結晶
モジュール
枚数
総出力
金額
(万円)
1kw当たり価額(千円)
上段:補助金適用後
下段:適用前
1kw当たり年間発電量(kwh)
( )内:計算発電量
回収期間(年)
NB245AB
245
シャープ
26
6.37
271
390
(425)
1,094



同上
205
287
(322)

10
NQ198AA
198
シャープ
27
5.346
233
401
(436)
1,096

NU172CB
172
シャープ
45
5.202
225
397
(432)
1,054

ND-S5AIR
185
シャープ
25
4.625
184.7
364
(399)
1,065

VBHN240SJ21
240
パナソニック
24
5.76
214.9
338
(373)
1,136
(1,199)

PV-MA2200K
220
三菱
26
5.72
178
276
(311)


                   
野立て50kwの見積もり
モジュール
公称最大出力
w
メーカー

モジュール
枚数
総出力
金額
(万円)
単価/kw
設置角度
1kw当たり年間発電量(kwh)
回収期間
HSL60P6-PB-1-250
250
ハンファQセルズ
164
41
1,257
(*1)
307
10
1,100

HSL60P6-PB-1-250
250
ハンファQセルズ
192
48
1,461
304
7
1,082

TSH-265DC05A
265
トリナソーラー
168
44.5
1,280
(*2)
288

15
1,127
9.6
CS-236B31
236
長州産業
168
39.6
1,200
303
15
1,172

LPV-200V-BLK-J
200
東芝
252
50.4
1,780
353
10
1,063

SRM296P-72N
296
サニックス
132
39.1
11,096
284
10
1,038

(*1)樹木撤去、運搬・草刈500,000円追加
(*2)エコめがね400,000円追加。

回収期間への発電収入と設備費の影響は、先に計算した住居用、産業用それぞれの回収期間の計算において比例するとして計算しても大きな違いは無い。


D. その他
  需要より供給の多い所に設置した発電所はそのままでは抑制が頻繁に起こるが、低圧の場合、柱状変電器を付けさえすれば、昇圧逆潮し、抑制を無くせる。