2018年6月22日金曜日

我々は何故、原発を再稼働するか、そして気付かねばならないこと

 原発のコストは、不確定で、長期的で未知で、金額換算しにくいものをたくさん含む。電気料金として現世代に請求できるものに限らざるを得ない算定コストには、これらの多くが捕捉されないで有る。洩れたコストは将来世代に付け回されるか、支払われない賠償金のように代償されないだけで無くなりはしない。資源エネルギー庁は、社会的理解を得れば無くなると言う。避難訓練をするのも、分からない放射線の影響に人が不安に思うのもコストである。除染が済んでも帰還者の少ないことから、土地のひとたびの汚染は土地の喪失であることに気付く。土地汚染コストを代償するには、除染費ではもちろん、放射能の及ぶ長い時間から見れば借地権に過ぎない土地代なぞで済むわけがない。
 原発の建設費は、一基4.4千億円で見ていたものが、今や安全対策費の上昇により1兆円を超える。資本費において発電1kWh当たり、太陽光とほぼ同じになった。資本費以外の費用の差が両者のコスト差であり、これらの洩れたコストが大きい。燃料費と運転維持費は住宅用太陽光に至ってはほぼゼロであることを見れば、太陽光は高く原発は低く歪められるコストの本当の所が分かろうというものである。
 
 前述の洩れたコストに目を背ける我々を、再稼働に駆り立てるのは、原発の動かした時と停止している時の少ないコスト差と危険度差である。減損費も含め資金も技術もなく、他にしようがないから止めたままでいる原発を少しコストを掛けて事故が無いだろう運転すれば、原発停止を補う代替火力の燃料費1.5兆円を節減出来、電気料金の上昇を抑えられると考える。しかし、この少ないコスト差や危険度差も電気料金の上のことで真実ではない。
 運転した時だけ掛かる主なコストは燃料費と使用後燃料の処分費である。電気料金の前提の核燃料サイクル方式では、これらの費用は将来再処理抽出されるプルトニウムという資産に棚上げ打ち消される部分が大きい。しかも見積もりの金額は原発の安価神話と電気料金規制により抑えられ、何よりも、核廃棄物の処分地として国民がすんなり受け入れる前提である。しかし、核燃料サイクルは破綻しプルトニウムはゴミと化し再処理は無意味となり、再稼働すれば運転の都度、外国に依存する燃料を消費し全量使用済み燃料を間違いなく生み出す。この使用済み燃料は誰もが引き受けを断るほど、10万年も掛かり続けるほど、莫大な処分費が掛かる。

我々は、原発の真実のコストを補償できないまま再稼働する心の底の罪悪感を、原発の真実のコストを捉えていない電気料金に全面的に依拠することによって、押し隠す。核兵器の原料を作るための発電、或いは将来の核保有が目的の政治家と官僚がどうあれ、我々は彼らに操作、誘導もされ上記の論理で再稼働を許す

 我々はもうそんなことをしないで良いように、原発をきっぱりやめられるように、今、二つの問いを発する時である。
 我々国民は原発をやめるためなら、どんな負担も甘受するのではなかろうか。やめるためのお金こそ国が日銀にお札を刷らせ工面し、その影響をどう被ろうと国民は我慢するのではないか。使用済み燃料も、もうこれっきりならば国民は受け入れるのではないか。原発をやめられれば賦課金の支払いも厭わないのではないか。
 二つ目の問いは、原発無くて出来る限りのCO2削減目標で何故いけないのか。CO2の削減は、それより悪い放射能を出してまでやることではない。

 

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