事故時の避難計画をたてたりまでして、原発は稼動させるものでは、かつてはなかった。導入当初、隕石の衝突の確率を調べた如く、事故が起きる可能性があるだけで受容れなかった。3.11以降、原発を忌避するどころか逆に大事故を想定して、即ち起こりうると認めてまでそれと共生しようしようとするのは何故だろうか。輸出がいとも簡単に決まっていくのは何故だろうか。
再生可能エネルギーが格段に進歩し代替の目途が立つし、企業・家庭の自給と節電が予想以上だったことが大きく、既に原発無くともピーク時でさえ電気は十分足りているのに。今一番、忘れてはいけないことは、こうはならないだろうからこそ原発をやめるわけにはいかないと言ってきた原発を容認していた人々が、こうなっている今なお、やめられないと思うのか自分に問うてみることである。今、一昨年9月大飯原発が止まってから原発ゼロとなって2年経とうとする今、原発をやめる理由に何の不足があるというのか。
原発の本当の危険性は、そのもの自体の危険性だけでなく、原発が内包している、どうしようもない陥穽がそれをさらに増幅したものである。この陥穽は、原発と敢えて共生しようとする時「事故は起こってはならない」が「事故は起こらない」に否応なく、不覚にも変化するものである。
まず、原発の事故が一旦起これば取り返しの付かないものであること、そして交通事故や飛行機墜落事故のようにアルゴリズムが明白でなく魑魅魍魎と言っていいほど測りがたいものであること。この二つのために、原発を隣り合わせに利用する時、恐怖を伴う憶測が入り憶測はその危険を甘く見るように働く。何故甘く見るように働くかというと、次に述べるように危険への対応が実でなく虚で行われるからである。心理学でいう補償作用、即ち現実の不如意を夢(=無意識)の中で補うことで均衡を保つ作用が、社会という集団においても一個人のように不可抗的に現れる。一人一人の無意識の作為、不作為だけでなく、自他に向け意思された作為、不作為も人間のどうしようもない性(さが)がなさせ個々の責めに帰させえ得ないとき、その集積と醸成は社会を一人と見ると無意識のものである。人間の手に負えないと紙一重の危険な原発と隣あわせに電力という恩恵を受けると事故は起こってはならないという葛藤や安全であれという祈りが知らず知らず、いつの間にか安全という事実に摩り替わる力が働く。原発が難解で超危険なため不如意の度が過ぎて、このように均衡がとられないと原発と社会はやっていけないのである。人間が原発を媚びるように立てて、生態系を傷つけることに緩慢になり自らを貶めるようにさえなる。そして起こってはならない事故は起こらないことになる。起こらない事故に普く備えられることはない。こうして危険と備えが、原発をめぐるあらゆる場面で、互いに背きあい相応どころか、かけ離れていく。原発の過酷事故は起こってはならないし、事故想定即ち備えの無い実用化技術もあってはならない。原発は自己矛盾の技術を晦ます他なく、いつかは本性を曝す。
福島事故で、吉田所長が津波について「起こるかどうかわからないことに対策をとることはできなかった」と言ったが、実は巨大津波は想定されていたが電源設備の改善を促さなかった。仮に巨大津波が想定されてなかったとしよう。原子炉の核燃料空焚き状態に帰結する冷却材(水)喪失、その水を送る電源喪失は当然想定される事故因果であり、電源が津波の高さの人間の想定の精度に従属するなら、核燃料空焚きもそれに従属する。核燃料空焚き状態の発生が人間の想定の精度に依存しなければならないなら、原発はそもそも実用技術として欠陥品ではないか。それを「想定外」と言って希有な切り札のように弁解するのは、人間の想定は大したものだと自然を前にして思い上がりである。
徹底究明より鎮静化の方が大事なのか中枢設備の地震破損説の未解決。危険な原発を安全と言わなければならなかったからには知ったかぶりやタブーも必要だったのだろう、責任者や専門家の、福島原発を四十年間運転してきて未知のものを扱うような対応。外国に与えられた技術でしかも超危険となれば自家薬籠中にする研鑽と努力を必死で重ねて来たものと思ったら、なんのことはない、専門家や責任者の事故対応と放射能の影響に関する議論百出。過酷事故と直結するだけに事故対応の試行訓練の機会と的確さを欠いたのだろう、作業の習熟の欠如と脆弱な設備。
SPEEDIの放射能拡散予測の隠匿が示唆することは、放射能飛散と避難に備えていたとは言え、いざ現実になると人間にはこのようなことは耐え難く受け容れ不能だということである。SPEEDIは、原発導入をお膳立てする虚仮の道具以上のものでなく、その目的通りの使われ方は人間には耐えられないことだということを期らずも証明したに過ぎない。誰も責められない。規制委員会の安全基準が避難計画を含まない本当の理由は、人間に受け容れ不能の放射能飛散と避難を基準に織り込みようがないからである。安全のため周知徹底せねば国民の命に係わることが、ならぬものはならぬと他の問題に摩り替わり知らされないのだ。人間が許容可能かどうかの検証を素通りして、単にお膳立てで赤子を騙すようなところが、原発には随所に見られ、しかも騙していることの自覚なさが陥穽に嵌ったとしか言いようがない。はっきり耐えられないと言わない赤子になりきった国民も陥穽の仕業だ。憲法で基本的人権が守られているのに、人間自尊を言い張るに少しも憚る必要はないのに。
使用済み燃料や廃棄物の処理を度外視した対環境と発電コストの優越。核燃料サイクル技術の破綻を認めない、真の困難からの逃避。そもそも確信犯的な「臭いものに蓋」がはぐらかされ無意識に行われる陥穽。
原発再稼働の思惑か、どっちつかずの再生エネルギー普及策の及び腰と鎮具破具。コストと無縁の促進賦課金を再生可能エネルギーのコスト高のせいにする言辞の一人歩き。太陽光発電コストは後述するが電気代の7割以下である。
民意を汲んだように民間に任せる原発の運営。安全を経済営利より軽んじる、あってはならない様々な事態を招来してきた。事故処理に関しては、政府は作業員の管理を今だに営利原則による電力会社に任せっきりである。作業員はたとえ給料目当てであっても、間違いなく国民の恩人であるのに。事故後、マイケル・サンデル教授が日本で開催されたの白熱教室で、犠牲的作業をする人を英雄のように敬意を持って、では被曝の危険を顧みず誰がその作業を担うべきかを真剣に討論していたのをNHKで見た。それが、多重下請けの日給1万5千円で全国から集めてきた殆ど素人の労働者を古い民家の相部屋に寝泊まりさせ使っている。労働条件の問題を労基署に持ち込んだ作業員は末端会社に解雇される。これが、営利民間の東電が多重下請けを放置している理由である。その東電を放置しているのは政府である。政府は東電の存続を約束して、事故処理に民間の営利原則が及ぶに任せられるほど、軽く出来ていると思わせられる方が、原発は大丈夫と言うには都合がいいのである。中国が脱線した新幹線を直ぐ埋めて証拠隠滅したことに日本は呆れたが、マイケル・サンデル教授が作業員の待遇を見れば同じ意味で呆れるだろう。民間営利によるなら総括原価方式も放棄しろと言いたい。
飛散した放射性物質を東京電力に無主物と言わしめたのはなんであろうか。電力会社には安心で余所事な、原発事故の賠償コスト及び再エネ促進費用を電気料金に付け替える総括原価方式。今潰れていないことが偽民営だと証明している。
人間の業とも言うべき原子力村の形成。
原発の是非を国政選挙のマニフェストの一要目で片付けている政党と、選挙の結果でなんとなく決めたつもりになる、否させられる国民。原発反対を独り占めし、小選挙区になすすべなく結束しようともしない野党が居る。
自然の摂理がいかに厳しくとも目を背けないだけの耐性、を退化させる悲惨映像を流そうとしない姿勢。悲惨な実像に目を背けて原発を直視できるか。残酷すぎると目を背ける者は是非云々を言わなければいい。1999年東海村JCO臨界事故の奇妙さ悲惨さが福島事故との関連で振り返られ語られることが無いではないか。同じ奇妙さ悲惨さが福島事故の至る所に伺える。津波で流されている人々の様子を見れば、こんなことも起こるのだから自分の死後に役立ててくれればそれでいいと諦めている。残った者はその死から堤防云々の前に原発は危ないと汲み取ることが供養である。原発は多数決でなく、それなりの人々が決断しなければならない理由がここにもある。
上の吉田所長の言辞で始めた事象のことごとくに怒りもせずただ看過する国民の、諸外国から褒められた震災時の行儀の良さにも似た慎ましさ。
これらの全てが原発と共生する社会の補償作用の現れであり、原発に潜む陥穽がなせる体である。
福島事故があって今後、大事故は明確に起こると覚悟して対峙するとしても、この陥穽は一旦身を潜めても、いずれ頭をもたげる。そして原発による電気の生産は、あるだけで危険で減らすことの出来ない使用済み燃料と廃棄物の負の生産を必ず伴う。どうしようもない陥穽を孕み二重に危険な原発は受容れてはならないのである。
原発を1960年代に将来のエネルギーと認めて受容れたのではない。化石燃料でない外国に依存しないエネルギーがどうしても欲しかった時「つなぎ」、つまり代わるエネルギーが出来るまでの過渡的なものとして已むなく国民は一時許した。代わるエネルギーは当初から太陽光や風力、地熱だった。「つなぎ」の初まりだけでなく終わりも再生可能エネルギーと二者択一なのである。はっきり言えることは、仮に始まりの時、太陽光が今の技術水準であれば、原発は受け容れられなかっただろう、それほど已む無くだった。
外交・国際政治問題サイト「百花斉放」の西村六善氏の「原発は最終解決でなく、つなぎにすぎない」という論文と筆者の拙稿「原発は元々つなぎだったはず」をお読みいただきたい。「つなぎ」とされた最大の理由は核のゴミの発生量を抑えることである。核燃料サイクルはゴミの処理ができると言うための材料に過ぎなく、世界の常識では当初から夢物語であった。原発を始めたことは失敗ではないのだから、虚しく継続することで後悔の痛みを宥めようとしてはいけない。「飢えては食を択ばず」で始まった「つなぎ」の終点の今、心置きなく択んでよいのである。
徹底究明より鎮静化の方が大事なのか中枢設備の地震破損説の未解決。危険な原発を安全と言わなければならなかったからには知ったかぶりやタブーも必要だったのだろう、責任者や専門家の、福島原発を四十年間運転してきて未知のものを扱うような対応。外国に与えられた技術でしかも超危険となれば自家薬籠中にする研鑽と努力を必死で重ねて来たものと思ったら、なんのことはない、専門家や責任者の事故対応と放射能の影響に関する議論百出。過酷事故と直結するだけに事故対応の試行訓練の機会と的確さを欠いたのだろう、作業の習熟の欠如と脆弱な設備。
SPEEDIの放射能拡散予測の隠匿が示唆することは、放射能飛散と避難に備えていたとは言え、いざ現実になると人間にはこのようなことは耐え難く受け容れ不能だということである。SPEEDIは、原発導入をお膳立てする虚仮の道具以上のものでなく、その目的通りの使われ方は人間には耐えられないことだということを期らずも証明したに過ぎない。誰も責められない。規制委員会の安全基準が避難計画を含まない本当の理由は、人間に受け容れ不能の放射能飛散と避難を基準に織り込みようがないからである。安全のため周知徹底せねば国民の命に係わることが、ならぬものはならぬと他の問題に摩り替わり知らされないのだ。人間が許容可能かどうかの検証を素通りして、単にお膳立てで赤子を騙すようなところが、原発には随所に見られ、しかも騙していることの自覚なさが陥穽に嵌ったとしか言いようがない。はっきり耐えられないと言わない赤子になりきった国民も陥穽の仕業だ。憲法で基本的人権が守られているのに、人間自尊を言い張るに少しも憚る必要はないのに。
使用済み燃料や廃棄物の処理を度外視した対環境と発電コストの優越。核燃料サイクル技術の破綻を認めない、真の困難からの逃避。そもそも確信犯的な「臭いものに蓋」がはぐらかされ無意識に行われる陥穽。
原発再稼働の思惑か、どっちつかずの再生エネルギー普及策の及び腰と鎮具破具。コストと無縁の促進賦課金を再生可能エネルギーのコスト高のせいにする言辞の一人歩き。太陽光発電コストは後述するが電気代の7割以下である。
民意を汲んだように民間に任せる原発の運営。安全を経済営利より軽んじる、あってはならない様々な事態を招来してきた。事故処理に関しては、政府は作業員の管理を今だに営利原則による電力会社に任せっきりである。作業員はたとえ給料目当てであっても、間違いなく国民の恩人であるのに。事故後、マイケル・サンデル教授が日本で開催されたの白熱教室で、犠牲的作業をする人を英雄のように敬意を持って、では被曝の危険を顧みず誰がその作業を担うべきかを真剣に討論していたのをNHKで見た。それが、多重下請けの日給1万5千円で全国から集めてきた殆ど素人の労働者を古い民家の相部屋に寝泊まりさせ使っている。労働条件の問題を労基署に持ち込んだ作業員は末端会社に解雇される。これが、営利民間の東電が多重下請けを放置している理由である。その東電を放置しているのは政府である。政府は東電の存続を約束して、事故処理に民間の営利原則が及ぶに任せられるほど、軽く出来ていると思わせられる方が、原発は大丈夫と言うには都合がいいのである。中国が脱線した新幹線を直ぐ埋めて証拠隠滅したことに日本は呆れたが、マイケル・サンデル教授が作業員の待遇を見れば同じ意味で呆れるだろう。民間営利によるなら総括原価方式も放棄しろと言いたい。
飛散した放射性物質を東京電力に無主物と言わしめたのはなんであろうか。電力会社には安心で余所事な、原発事故の賠償コスト及び再エネ促進費用を電気料金に付け替える総括原価方式。今潰れていないことが偽民営だと証明している。
人間の業とも言うべき原子力村の形成。
原発の是非を国政選挙のマニフェストの一要目で片付けている政党と、選挙の結果でなんとなく決めたつもりになる、否させられる国民。原発反対を独り占めし、小選挙区になすすべなく結束しようともしない野党が居る。
自然の摂理がいかに厳しくとも目を背けないだけの耐性、を退化させる悲惨映像を流そうとしない姿勢。悲惨な実像に目を背けて原発を直視できるか。残酷すぎると目を背ける者は是非云々を言わなければいい。1999年東海村JCO臨界事故の奇妙さ悲惨さが福島事故との関連で振り返られ語られることが無いではないか。同じ奇妙さ悲惨さが福島事故の至る所に伺える。津波で流されている人々の様子を見れば、こんなことも起こるのだから自分の死後に役立ててくれればそれでいいと諦めている。残った者はその死から堤防云々の前に原発は危ないと汲み取ることが供養である。原発は多数決でなく、それなりの人々が決断しなければならない理由がここにもある。
上の吉田所長の言辞で始めた事象のことごとくに怒りもせずただ看過する国民の、諸外国から褒められた震災時の行儀の良さにも似た慎ましさ。
これらの全てが原発と共生する社会の補償作用の現れであり、原発に潜む陥穽がなせる体である。
福島事故があって今後、大事故は明確に起こると覚悟して対峙するとしても、この陥穽は一旦身を潜めても、いずれ頭をもたげる。そして原発による電気の生産は、あるだけで危険で減らすことの出来ない使用済み燃料と廃棄物の負の生産を必ず伴う。どうしようもない陥穽を孕み二重に危険な原発は受容れてはならないのである。
原発を1960年代に将来のエネルギーと認めて受容れたのではない。化石燃料でない外国に依存しないエネルギーがどうしても欲しかった時「つなぎ」、つまり代わるエネルギーが出来るまでの過渡的なものとして已むなく国民は一時許した。代わるエネルギーは当初から太陽光や風力、地熱だった。「つなぎ」の初まりだけでなく終わりも再生可能エネルギーと二者択一なのである。はっきり言えることは、仮に始まりの時、太陽光が今の技術水準であれば、原発は受け容れられなかっただろう、それほど已む無くだった。
外交・国際政治問題サイト「百花斉放」の西村六善氏の「原発は最終解決でなく、つなぎにすぎない」という論文と筆者の拙稿「原発は元々つなぎだったはず」をお読みいただきたい。「つなぎ」とされた最大の理由は核のゴミの発生量を抑えることである。核燃料サイクルはゴミの処理ができると言うための材料に過ぎなく、世界の常識では当初から夢物語であった。原発を始めたことは失敗ではないのだから、虚しく継続することで後悔の痛みを宥めようとしてはいけない。「飢えては食を択ばず」で始まった「つなぎ」の終点の今、心置きなく択んでよいのである。
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