2016年3月3日木曜日

原発再稼働をして復興がどうして成るというのか

東日本大震災復興基本法は「単なる災害復旧にとどまらない」「一人一人の人間が災害を乗り越えて豊かな人生を送ることができるようにする」ことを基本理念としている。物理的復興と同時に当然、心の復興を意味している。
しかし、原発を再稼動をしていて被災者の心の復興がどうして成るというのか。
遺体を探し出し葬式を済ますことと同じように、縁者の死を意味有るものにすることは、残された者が死者との別れを受け容れ人生と再び向き合うために必要なことである。私は3月11日のテレビで激流に流されていく人々を見ながら、もし自分ならば流されながら何を思うかを考えていた。「今、自分は不運にも死ぬが、こんなことも起こるのだよ。どうか残った人に自分の死を役立ててほしい」別れを一瞬に覚悟した後はこう思うしかないのではないか。無意識下に。亡くなった人は残された縁者の心の中に生き続け、残された者も亡くなった人の思いを思うようになる。地震と津波で死にゆく自分の死が、同じ原因で放射能を拡散する原発の本当の危険性を知らしめ軌道修正に繋げてほしいと祈っているに違いない。原発を止めることが、被害にあった人々に報い,鎮魂することである。報わなくて何の復興か。今生きている日本人が原発を尚使い続けることは、震災の死者の思いを裏切ることであり、残った人たちの心を踏みにじることである。

復興が心の面だけでなく物的な面でも進展が捗々しくなく地に足が着いたものにならない原因は原発を潔くきっぱり止めないからである。このことは、言葉を持たない死者、言葉を奪われた残された被災者、再稼動ありきの復興を司る者の三者の間にあって表に出て来ない。
放射性廃棄物の処理地を募る時、再稼動し今後も増え続けるのと、量はこれを持って最後だから引き取ってくれと言うのでは、受け入れる気持ちが起こるかどうか大きく違うことに気づくべきである。
除染作業で、庭の表土を5cm剥ぎ取り空間線量が1ミリシーベルト年を切ったからといっても、隈なく0.23マイクロシーベルト時間以下を測定したわけでない。また計器の翳し方によっても数値が振れる。コンクリート面の除染中に使った水の漏洩を防ぐのは難しい。長年、原発を安全と言い続け放射能の影響の研究を怠り今、原発再稼働に前のめりの学者達が大丈夫と言う計測の基準と方法についても今更俄かに信じるには不安がある。内部被曝についても未知である。放射能の人体に及ぼす惨状は報道で隠すようにされてきた。庭に埋められた汚染土の掘り起し移転はあくまで予定でしかない。予算の約六分の一しか末端の作業員に渡らない多重下請け構造を東電に放置させているからには手抜き工事もあろう。除染の仕事で行ったどこのお家の庭も庭木が荒れ放題であった。一旦汚染された土地で育つ庭木に対する愛情さえ消え去るのだ。除染が終われば変わるとしても、そうする他ないからだ。一旦汚染された土地に対する気持ち悪さは拭い去れない。国民が今自分が住む家と庭が汚染されたと想像できるかどうかである。敢えて土地価格に言及すれば、磐城、中通り、会津で暴落を免れているのは避難区域の人と除染労働者の流入があるからに過ぎない。安全でないと判明した原発、かくも憎い原発と隣り合わせに一度汚れた土地での生活に耐えても故郷に戻る人や住み続ける人以外には、新しい人や若い人が集まるわけがない。こうした中での産業の復興は、耐える覚悟で故郷に戻り住む域を出るものではない。
危険なものを普及させるために敢えて安全だと喧伝している内に、知らず知らず見据えるべき危険が他のものにすり替わり、危険への備えが疎かになる。他稿で述べた原発固有の「陥穽」である。原発の再稼動は今の政府にとっては復興の象徴なのだろうが、避難者に帰還を無理矢理迫る事態が示す通り、収束したとか復興が進展したと言いたいばかりに、福島事故の原因究明も終わらず、汚染地下水の漏洩も食い止められない内に拙速に他の原発を再稼動する。福島事故を齎した同じ陥穽にまた落ちようとしている。

私は昨年末3ヶ月間、福島市の宿舎から通い郡山で業としての住宅除染を行った。児童達を疎開させ残った親達の様子から、愛する土地を毀損された無念さと住む土地を否定するわけにいかない葛藤の狭間で、市から除染で回復が成ると言われれば黙るしかない諦観の様相がひしひしと窺えた。除染作業で被爆が原状復旧したとされ補償はこれきりなのだ。除染作業員はお宅の人からも町の人からも嫌われている。金目当て如何に関わらず当然であろう。私は庭木の汚染された枝を落とす時、剪定までしてあげることで少しでも和んで頂いた。
このような災禍を福島限りにする復興か再び同じ災禍を想定した復興かで、物と被災者の心の両面で達成の度合いと質が大きく違う。復興が再稼動の申し訳に行われているとは言わないまでも、原発を潔くきっぱりやめるということが復興にどんなに肝心なことかが失念された復興が行われている。

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